新宿区袋町3丁目に寄席や映画館になった建物がありました。江戸時代に義太夫が唄う「牛込藁店亭」から寄席色物席の「わら新」に、明治時代には「わら亭」「和良店亭」「牛込高等演芸館」と改称し、さらに短い3年間は「東京俳優学校」も開校し、そして大正5年以降に映画館「牛込館」になり、また日活直営店になり、しかし第2次世界戦争で灰燼になりました。
ここでは明治時代の「和良店」と「牛込高等演芸館」をあつかいます。
穂積重行編「穂積歌子日記。明治一法学者の周辺 1890-1906」(みすず書房、昭和64年)では……
夜小住よぶ。弟子娘13ばかりなるをつれ来る。三荘太夫子別れ語る。小住には狐火(「本朝24孝」の中)かたらす。三味線達者なれば面白かりけり。
「明治世相百話」の「女芝居と女義太夫」では「小住等の正義派」という話でした。
当時小住はひと足先に大看板、門下の住八を住之助と改め、13歳で真打に押し立て、師弟もろとも人気を呼んで一方のぱりぱり、そのころ女義太夫はすべて睦派と称する寄席の一派に属し、「五厘」という世話人があって、席の割振りをやっていた。随ってこの「五厘」はなかなか勢力があって、付け届けでも悪かったり機嫌を損じたりすると、人気があっても芸がよくても好い席へ回さない、というようなわけで出方は泣かされた。
利かぬ気の小住はこの「五厘」の不公平を憤慨して、ついに25、6年頃、小土佐をはじめ、清玉、鹿の子、鶴蝶等と共に断然反旗を翻し、正義派というのを起して睦派に対抗した。女義始まって以来の問題で、かなり斯界を騒がせたが、なにしろ一流の寄席は睦派に占められていたので、正義派は二流三流の席へしか出られぬことになったが、もちろん覚悟の上と頑張って贔屓連の同情を力に、この対抗は相当長く続いた。
芸能史研究家の吉田章一氏による「わら亭のナゾ」(「神楽坂まちの手帖 第9号」2005年)では……
この寄席は明治になって「笑楽亭」と名を変えて色物席になりました。たとえば明治23年の顔付けを見ると、
●藁店・笑楽亭
1月下席(16日から30日まで)
橘家円太郎(四代目・高座でラッパを吹いた人気者)、三遊亭円左(初代・のちに落語研究会を起こした功労者)、橘家小円太(のちの二代目三遊亭小円朝)、三遊亭金朝(二代目・芝居噺が得意)、*三遊亭円朝(当時の三遊派頭取)
というすごい顔ぶれになっています。
笑楽亭は、明治24年ごろ女義太夫の竹本小住という人の所有になって、玄人と素人が半々に出演する義太夫席になりました。座敷がきれいになったと評判になっています。明治28年には改築して、このころから「和良店亭」という落語中心の色物席に戻りました。さらに「和良店演芸館」ともいいました。
小住の夫の佐勝さんは明治40年に全面的に改築をして、名前も「高等演芸館」と改めました。当時は「高等」が流行り言葉だったようで、のちのハイカラ、ゴージャス、セレブのたぐいでしょうか。あらゆる分野の演芸者が出演して、2月10日にはなばなしく開業式を開きました。座席はまだ畳敷きですが、かなり大きい寄席でした。建物も地下室があって、地下に喫茶部や食堂まで作ったと故人の円生さんが伝えています。佐藤さんは洋行帰りだとかで、将来はこうなると思ったのでしょうが、時代が早すぎたか、あまり流行らなくて失敗に終わったようです。
*三遊亭円朝 落話界最大の名人とされています。多くの落語や「怪談牡丹灯篭」など名作といわれる人情噺を創作し、その速記を収録した大部の「全集」が出版されています。命日の円朝祭は今でも落部界の行事になっています。
義太夫 ぎだゆう。浄瑠璃の代表的流派。物語の筋、せりふに三味線の伴奏で節をつけ語る芸能。
色物 いろもの。落語、講談、義太夫(関西では漫才も)に対して、漫才、曲芸、奇術、声色、音曲など。落語家や講談師の名前は黒文字で、他の芸の演者は赤文字で書かれる。


地蔵坂。風俗画報。明治39年6月25日
2010年の「かぐらむら」第50号の谷口典子氏が描く今月の特集「藤澤浅二郎と東京俳優学校」では……
和良店亭の設立時期は判っていないが、文政8年(1825)8月には、「牛込藁店亭」で都々逸坊扇歌が初看板を挙げ、美声の都々逸に加え、冴えた謎かけを披露し、以後一世を風靡しており、天保年間には「わら新」で、義太夫の興行が行われたという。明治を迎えると、「藁店・笑楽亭」と名前を変えて色物席となる。明治21年頃、娘義太夫の大看板である竹本小住が席亭になり、24年に改築し「和良店亭」とした。
小住の夫、佐藤康之助は、娘浄瑠璃の取り巻き「どうする連」の親玉だったと伝えられる。旧水戸藩御用達で六十二銀行を設立した佐藤巌の長男として、商法講習所(現:一橋大学)で学ぶが、親の銀行を数年で辞め、その後、どうにも腰が落ち着かない。ついに、親が根負けして名流の寄席を持たせ小住との生活を黙認したようにも思える。
洋風2階建ての「牛込高等演芸館」
(佐藤康之助は)明治37~8年にはアメリカに遊学し、帰国後の39年暮れ、洋風二階建ての本格的な舞台を備えた「牛込高等演芸館」を新築した。地下に食堂を作り「セラ」という洋食屋を設け、翌年1月には盛大な開館式を行った。今でこそ、食堂の設置は常識だが、まだ、芝居といえば「お茶屋」を通して、という時代だったので人々の目には奇異に写ったという。
平成25年の「かぐらむら」第67号の谷口典子氏が描く牛込「高等演芸館」では……
文政八年(1825)には、都々逸坊扇歌が「牛込藁店亭」で初看板を挙げている。明治になると「藁店」「笑楽亭」と名前を変えた。経営は地元の組頭で、芸に対する見識の高さで知られ、山の手では一流の席で、お客は毎日300人を下らなかったという。
明治21年(1888)、水戸人佐藤廉之助がここを買い取る。のちに、寄席を高等演芸館に建替え、その後映画館「牛込館」へと改築した人物である。廉之助は文久3年(1863)水戸市に生まれ、当時一流の横山塾に通った後12歳で上京し啓蒙学舎を経て商法講習所(現一橋大学)で学んだ。六十二銀行、広島県吏、東京馬車鉄道会社と転々とした後に、寄席和良店亭を経営するに至る。家柄も良く、教育環境にも恵まれたが、寄席通いを覚え娘義太夫に夢中になり、仕事どころではなく、万策尽き果てついに親が観念し、好きな道で身を立てさせるべく寄席を買い与えたものと思われる。
しかし、土地の人間でもない素人の廉之助に寄席経営が出来るはずもない。明治24年(1891)1月、女義太夫で名高い竹本小住が廉之助の内妻となり経営を助けた。「あまりふるわなかった寄席の座敷を清潔にし、お客の待遇を親切にし、お茶やお菓子も良いものにしたので、非常にお客が入る様になった」と当時の新聞が伝えている。小住は牛込で生まれ、父親と共に名古屋で修行した後、東京に戻り人気を博した女義太夫の頭取で、この時32才。容貌はごく普通だが、人情に厚く正義感の強い女性だった。(中略)
山の手である神楽坂界隈には、勤め人が多く、お客は夜間にしか集まらない。廉之助は、時代の変化に対応するべく、日露戦争の最中にアメリカ遊学をして娯楽の方向性を模索した。39年6月には、和良店亭を取り壊し高等演芸館への建替えに着手する。都新聞に「模範寄席の設立」として、「約三百の土地にれんが造りの二階建て。地下一階には、売店、化粧室、喫煙室を設ける。一等室には専用の応接、喫煙、喫茶、化粧室を設けて舞台の左右には音楽演奏台を造り、花道も背景を持たせる様にするという。普段は寄席として使い、文芸協会や演芸奨励のために行われる会員組織の会合に利用出来るように考え、建築費三万円(現在の三億円以上)の予定とのこと」(中略)廉之助は、アメリカをモデルにしつつ、牛込区で最も累華な神楽坂に小劇場を提供したいと考えた。寄席機能に加えてショーやダンス、演劇、音楽会、会合を開くことの出来る施設で、実際に竣工した建物は、様式スレート葺き二階建て百二十六坪、特別席、休憩室、化粧室を備え、55坪の地下には「セラ」という洋食屋が入った。請負は初代服部商店の時計塔を手がけた米国建築士伊藤為吉氏、室内装飾は福池天香(元東京美術学校教授)に依頼し、工事費は一万八千六百円であった。
明治40年(1907)2月10日午前10時から華々しく「高等演芸館」の開会式が行われた。主賓は総理大臣、早稲田大学総長の大隈重信 (祝辞代読、前島密)東京市長、尾崎行雄(祝辞代読)、牛込区長、神楽坂響察所長も参列し、余興は三遊派を代表して四代目円喬、竹本朝太郎、小円朝など当代一流の芸人が出演する豪華なものだった。
しかし、開業してみると寄席の他に愛国婦人会の余興芝居、牛込芸妓の演芸会、牛込区公民大会、岩谷小波のお伽芝居や文士劇に利用されたものの、収益が見込める程の利用率ではない。文芸協会の演劇活動は一向に始まらず、廉之助は落胆したが、新派俳優の藤沢浅二郎が、俳優養成所設立の場所を探していることを知ると、破格の低家賃で朝から夕方までの設備一式を提供することを申し出た。演劇活動を応援する事で、施設の活用を促せると考えたのである。
藤沢浅二郎は、壮士芝居の出身者だが、学識人格共に優れ、近代的な俳優養成を急務と考え、私費の事業としてこの場所で男優育成に着手した。教師は、歌舞伎役者、音曲の名人、新進気鋭の学者、画家、音楽家達だった。当時の須磨子の夫、前澤誠助もここで日本史を教えていた。
高等演芸館は、地域に大きな文化交流の場をもたらせたものの、個人で維持運営するには負担が大き過ぎた。藤沢の俳優養成所も経費がかさみ、莫大な負債を抱えて閉校に追い込まれる。廉之助は、再び視察の旅に出た。高等演芸館は再度改築され、大正3年6月、人々の憧れの的、帝国劇場を参考に豪華な映画館「牛込館」に姿を変えた。しかし、映画もまだ充分な質量のフィルムが確保出来る時代ではなかった。二年後、廉之助は、日活に自宅を含む土地建物をすべて売却すると興行の世界から姿を消した。
牛込高等演芸館

「新撰東京名所図会 牛込区之部 中」(東陽堂、明治39年)では……
和良店亭
牛込袋町(三番地)に在り、色物講談席なり、此辺俚俗藁店と称するより取って名とす。営業主須藤ハナ(芸名竹本小住)電話番町658を架す、小住は女義太夫の名流なり、門弟を有し、一座を組織して、市内の席亭を巡業す。其芸を売るや自宅に於てせず、諸種の芸人を招聘して、己れ常に外に在り、家事は其内縁の夫たる佐藤某に委ね、又関せざるなり、亭後に寮を設け、風流是れ事とし、傍ら門弟を導く、蓋し一畸人なり、和良店は牛込一等の席亭にして、中流以上の客に賞せらる。
新聞集成明治編年史編纂会「新聞集成明治編年史 第9巻」(林泉社、1915)の都新聞(明治28年3月)では……
牛込わら店落成
牛込のわら店亭は新築落成せしを以て1昨日席開きをなしたり。
夏目漱石の『僕の昔』では
落語か。落語はすきで、よく牛込の肴町の和良店へ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席はたいてい聞きに回った。なにぶん兄らがそろって遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだ。
『ここは牛込、神楽坂』第7号の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会では
同号で高橋春人氏の「牛込さんぽみち」では……
この坂の右側に、戦前まで「牛込館」という映画館があった(現・袋町3)。この同番地に、明治末から大正にかけて「高等演芸館・和良店」という寄席があった。この演芸館に「東京俳優養成所」というのが同居していた。
一方、同じく同号で西村和夫氏の『雑学神楽坂』では
藁店に江戸期から和良店亭という漱石も通った寄席があった。
野口冨士男氏の『私のなかの東京』ではこう説明されています。なお、野口冨士男が誕生したのは明治44年7月です。
藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店という小さな寄席があった。映画館の牛込館はその二,三軒先の坂上にあって、徳川夢声、山野一郎、松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和50年9月30日発行の『週刊朝日』増刊号には、≪明治39年の「風俗画報』を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正時代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。
明治41年、真山彬氏の短編集「奔流」のなかの「闘」では……
夕方より千葉生を連れて和良店に小さんを聞く。駱駝と云う話。
明治44年『実業の世界』2月号で高等演芸館の状況は……
高等演芸館で和田垣博士の御高説拝聴記
『実業之世界』記者 xy生
▲牛込の高等演芸館へ出掛ける
1月19日、理髪床の宿り日だ、唐棧づくめか何かの意気な兄哥連が、ぞろ/\通る、午後5時に社を飛出した記者は、このまま渋谷の自宅へ帰るも、何となく物足りないように思われて、何処か遊びに行く処はないかと考えながら歩いて居ると、ふと気が付いたのは女義太夫竹本綾之助君の良人石井規外君から、17日には綾之助の新作浄瑠璃「富士巻狩玄年夢」を牛込の高等演芸館でやるから、聴きに来てくれと招待を受けて居た事だ。丁度幸いと、電車で出掛ける。
▲初対面の和田垣博士
二階の招待席に腰を下して久振りで女義太夫なるものを聴く。みんな中々上手に語る。二階も階下も満員の景気だ。然し招待席には僕を合せて三人しかいない。向うの隅に居るのは若いやせた男で、傍に居るのは火鉢の上に片足掛けて、時々大きなパイプに舶来の刻煙草をつめては、スパリ/\と吸って居る。二重廻を着て大きな体格の、年の頃は55、6位か、何処かで見たような人であった。中入の時に綾之助君の番頭をして居る斉藤南華君が話に来た際、「あの方が和田垣博士ですよ」と教えてくれたので、アッ、成程、道理で見た様だ。写真では度々お目に掛って居る。そこで僕は大切が済むと早速雑誌記者気質を出して『和田垣先生で仰入ますか、私はこう云う者ですが』と実業之世界記者と肩書のついた名刺を出した。
▲先づ冒頭からお小言頂戴
博士は「アゝ、実業之世界ですか、実業之世界なら私も毎号読んで居る。15日号の分も今朝読んだよ、三宅君の代議士論は中々面白いね」と二言三言記事に就いて話された。(中略)
「私は君の方の雑誌が、若い人達ばかりで経営して行くのに同情して居る、同情して居るから苦い事も云うのだが……」、と云いながら立上られる。見れば客は己に散じ尽して、階上階下の座席には、火鉢、布団、などの残骸が、我顔に散らばって居るのみ。そこで僕は「では先生、近日御伺い致しますから、その節は是非何か雑誌にお話を」と願うと、博士は黙肯かれる。一所に木戸口の方へ降りた。
▲『オーイ、実業之世界』
木戸口にはまだ客が17、8人残って、各々下足を争って居た。僕も後ろに立って自分の番の来るのを待って居ると、博士は右手の階子段を地下室へ降りて行かれた。暫らくすると地下室から博士の声で「オーイ、実業之世界!」と呼ばれる。実業之世界と云う呼び名には少々驚いたが、「ハーイ」と答えて振向くと、階子段の中途で博士は此方を見て「名前を忘れたから、実業之世界で宜いだらうハハハ……!」と笑い乍ら「何か話してやろう此方へ来ないか」と麾ねかれる。僕は仰せを畏まって直ちに地下へと下りる。
▲上手に図々敷いのが記者の上乗
此所の地下室は西洋料理室なのであるが、何しろモウ退場過ぎとて料理は出来なかった。博士は「此方が宜い」と云い乍ら、料理人部屋二畳敷ばりの室へとり込んで、自ら立って傍にある正宗の二合瓶を取出し「これを燗けて」と料理人に命じて後、やおら僕に向き直って
『君は江戸ッ子らしい、ね、そうだろう、ハハハ……能く当るだろう……江戸ツ子は雑誌記者には向くよ、口前がよくて愛嬌があってそして図々敷して……」(後略)
和田垣 和田垣謙三。わだがきけんぞう。明治から大正の経済学者。東京帝大教授として草創期に基礎を策定。
宿り日 やどりび。旅先での宿泊や仮の宿の日程。鬼宿日(約一か月に一回の周期で訪れる吉日)
唐桟 とうざん。紺地に浅葱・赤などの縦の細縞を織り出した綿織物。
二重廻 にじゅうまわし。男性用の和装防寒コート。
大切 大喜利。最終演目の後に,独立して付けられる出し物の呼び名。
己 おのれ。自分。自分自身。
上乗 じょうじょう。もっともすぐれていること。かみのせ。他人の計画やすすめに乗ること。うわのり。中世の水先案内人、トラックなどの積み荷の上に乗っていくこと。
口前 ものの言い方。話しぶり。口だけではうまいことを言う話しかた
宮本百合子氏の「茶色っぽい町」(「読売新聞」大正14年10月26日号)では……
ずっとずっと前、いくつ位だろう、11,2になっていた頃か、飯田町に引越した叔父につれられ、まだ七つばかりの従弟と夜散歩したことがあった。淋しい牛込駅の傍の坂を下って、俄に明るく、ぞろぞろひどい人波が急ぎも止まりも仕ないで急な坂を登り降りしているのにびっくりした覚えがある。今は活動写真館になっている牛込館がまだ寄席であったらしい。そこに入った。高座の上で支那人が水芸をするのを見物した。小学校の記念日に大神楽がきっと来た時代だ。支那人のする水芸そのものは、黒紋付に袴の股立ちをとった大神楽のやることと大して違いはないのだが、その支那人は、(水色の、踝でしっかり結えた股引に、黒い靴を穿いていた。)派手な三味線に合わせ、いざ芸当にとりかかる時、いかにも支那的音声で、
ハオ!
とか何とか掛声をかけると同時に一二歩進み、ひょいと右か左、どっちかの足を曲げて、パン! と靴裏でもう片方の脚の腓こむら辺を叩く。靴が軟かいし、永年の修練で、
ハオ! パン!
と、それは丸い、其癖ひどく刺戟的な勇ましい音を出したものだ。
宮本百合子は大正14年、26歳で「茶色っぽい町」を執筆しています。この情景は11歳だとすれば大正3年、12歳で大正4年の昔話です。また「和良店亭」は明治39年から「牛込高等演芸館」と名前を変え、大正5年以降に映画館「牛込館」に変わっています。したがって10歳か11歳の女の子が「牛込高等演芸館」に行ったという話です。
以上、色物席の和良店と牛込高等演芸館でした。
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