わら新|袋町

 新宿区袋町3丁目に寄席や映画館になった建物がありました。江戸時代に義太夫が唄う「牛込藁店亭」から寄席色物席の「わら新」に、明治時代には「わら亭」「和良店亭」「牛込高等演芸館」と改称し、さらに短い3年間は「東京俳優学校」も開校し、そして大正5年以降に映画館「牛込館」になり、また日活直営店になり、しかし第2次世界戦争で灰燼かいじんになりました。
 ここでは江戸時代の「わら新」についてあつかいます。

 東京市牛込区の「牛込区史」(昭和5年)では……

 享保8年12月5日大火。牛込天神町より出火、延焼、一番町堀端に及ぶ大火である。(中略)『年代炎上鑑』には『同年12月5日未の刻、牛込赤城明神下西天神町神尾左兵衛組屋敷より出火、西北大風にて榎木町・赤城辺・寺町・わら店・神楽坂上・若宮小路・(後略)」

 享保8年は西暦1723年と1724年に当たり、12月は1724年でした。これは江戸幕府第8代徳川吉宗将軍が「享保の改革」を行っていて、すでに「わら店」の言葉が出ています。

 2010年の谷口典子氏の「かぐらむら」今月の特集「藤澤浅二郎と東京俳優学校」では……

 江戸で最初に出来た寄席は、寛政10年(1798)、櫛職人の可楽が、下谷神社境内に開いたとされている。和良店亭の設立時期は判っていないが、文政8年(1825)8月には、「牛込藁店亭」で都都どど逸坊いつぼうせんが初看板を挙げ、美声の都々逸に加え、冴えた謎かけを披露し、以後一世を風靡しており、天保年間には「わら新」で、義太夫の興行が行われたという。

 芸能史研究家の吉田章一氏による「わら亭のナゾ」(「神楽坂まちの手帖 第9号」2005年)では

 牛込の藁店には古くから「わら新」という寄席がありました。土地の名前から「わらだな」ともよばれたのですが、天保年間には義太夫の興行が行われています。ここで売り出したのが、初代都々一坊扇歌です。扇歌は都々逸やトッチリトンを作って三味線を弾きながら唄う「浮かれ節」の元祖とされています。八代目入船亭扇橋が雑誌『大法輪』昭和11年新年号で伝えているのによると、肩歌は文政8年(1825年)8月1日からここ牛込藁店で看板を上げた、つまり主任の芸人として高座を勤めたとしています。このとき師匠の初代船遊亭扇橋と先輩の初代麗々亭柳橋も並んで口上を述べました。
 古い芸能通の関根黙庵が著した『講談落語今昔譚』では、これを天保9年(1838年)としていますが、師匠扇橋は文政12年に亡くなっていますから、文政8年が正しいと思います。
 扇歌は以来、客に題を求める謎解きや即席都々逸で人気を取り一世を風靡します。
 古い芸能通の関根黙庵が著した『講談落語今昔譚』では、これを天保九年(1838年)としていますが、師匠扇橋は文政12年に亡くなっていますから、文政8年が正しいと思います。

 都々一坊扇歌の生年は文化元年(1804)。没年は嘉永5年(1852)。つまりペリー来航は1853年なので、江戸末期に死亡しています。彼は音曲師(寄席の舞台で三味線を弾きながら、俗曲、都都逸、流行歌などを唄う芸人)で都々逸の祖です。文政7年か8年に江戸に出て、船遊亭扇橋に入門。美音で当意即妙、謎とき唄や俗曲「とっちりとん」で、音曲界のスターに。都々逸坊扇歌と改名し、江戸牛込の藁店わらだなという寄席を中心に活躍しました。寄席の客になぞの題を出させ,その解を即興で都々逸節(七、七、七、五の四句)の歌詞にしました。やがて、江戸で一番の人気芸人となり、天保時代には上方にも出向き活躍。世相を風刺した唄も沢山ありますが、晩年には幕府・大名批判とされ江戸を追放されてしまいます。

一瀬幸三『牛込藁店亭と都々逸坊扇歌』(新宿鄉土会、平成3年)

  ドドイツの名前は旅の途中豊原の宿で同宿の旅芸人より聞いた神戸節の唄「おかめ買う奴あ頭で知れる 油つけずのニつ折れ そいつあどいつじゃ ドドイツドイドイ 浮世はさくさく」の調子が面白く、ドドイツとなりました。さらに都で一番になるとの思いから「都々一」となったといいます。
 扇歌の唄の例は……

親がやぶならわたしもやぶよ やぶに鶯鳴くわいな
(藪医者の息子で大成できるわけがない、と叔父に江戸行きを止められたときに)
諦めましたよどう諦めた 諦め切れぬと諦めた
都々逸も うたいつくして三味線枕 楽にわたしはねるわいな (辞世の唄)

 「とっちりとん」は1804年から1830年に流行、三味線の前弾きの終わりに口三味線でいえば「トッチリトン」という旋律を弾く音楽です。

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