藤沢浅二郎は慶応2年4月25日(1866年6月8日)京都府に出生。雑誌「活眼」や「東雲新聞」の記者から明治24年(1891年)に堺で川上音二郎の書生芝居の旗揚げに俳優兼作者として参加。その後、約20年にわたって、新派の重鎮として活躍。1908年(明治41年)11月11日、42歳の時に牛込区袋町に私財を投じて東京俳優養成所を開設し、1910年、東京俳優学校と改称。しかし、1911年(明治44年)12月には閉校しました。なお、旧字体や明らかに間違えている場合、直しています。また「浅次郎」も可能ですが、「浅二郎」を使っています。

では「新聞集成大正編年史4上 大阪朝日新聞 大正4年1月」では……
新劇の先駆者 —俳優学校の興廃—
新しい芝居の先駆者は、藤沢浅二郎校長、小山内薫、桝本清、川村花菱(之はやや後に成って這入ったのだが)此三人が舞台監督と成って成立された東京俳優学校の連中が、即ち新しい芝居の率先者、フォーアランナーである。何事に由らず創業の際は其事業に対して遠大な理想を抱いているものだが此の俳優学校も其例に漏れず、後日大いに日本のアービングやサラベルナールを出す意図だった。学科としては日本及び泰西の演劇史、表情術、舞踊(舞踊といっても普通の日本の踊なので、桝本氏などは此踊に反対し、大いに舞踊不必要論を唱えたものだ。「新しい芝居に踊の型が出たらもう駄目だ、踊は型だ新しい芝居には型が無い」と云うのが同氏の論旨であった)
講師として小山内、桝本の両氏は無論のこと、秋田雨雀、相馬御風、本間久雄と云ったような新進の早稲田の文士が面白半分に教えていた。
谷口典子氏は「藤沢浅二郎と東京俳優学校」(かぐらむら50号、平成22年)で……
佐藤(註:牛込高等演芸館大家の佐藤康之助)の厚意で、牛込高等演芸館の寄席の時間外を借り切る事になり、準備は順調に進められた。舞台は、間口4間奥行き3間ほどで、広い客席、桟敷付き2階とそれに続く大広間が2部屋。電話も自由に使わせて、舞台裏手奥に中2階の教室も新築してくれた。毎月の家賃は36円だった。生徒の終業年数は3カ年で、入学金5円、月謝は3円である。
広い客席、桟敷付き2階 この時代、錦絵(新富座本普請落成初興行看客群集)に見えるような客席が普通でした。

川村花菱氏の「随筆・松井須磨子 — 芸術座盛衰記」(青蛙房、昭和43年)では……
演芸場の興行は夜だけなので、昼間は全くあいていたので、俳優学校はその全部を使う事にして、舞台では芝居の稽古、階下の客席では、歌の稽古、教室では頭脳的方面の講義という風で、生徒はみんな広い休憩室に屯していた。そこの片すみには、机だけの事務所があって、その引出しには規則書や帳面がはいっていた。
演芸場の主人は、佐藤という、どうする連の親玉で、その夫人は竹本小住という義太夫の太夫だったが、この佐藤氏は、ある時は話が分かり、ある時はまるで分からないというふうだったが、煎じつめれば、好人物で、ただこの席の経営がおもしろく行かなくッて、経済的にも苦しかったために、すばらしく細かいところがあったのだ。
校長の藤沢氏は、この学校を創められたのだが、その経費はとうてい生徒の月謝などではまかなって行けるわけがなく、藤沢氏自身も非常に苦しい立場にいた。演芸場の家賃は、月45円だった。生徒は一期・二期を合わせて、30人ぐらいで、その月謝が3円であったから、全部集まったところで、100円たらず、その中から家賃45円、残りの45円では、事務費から先生の車代、考えても出来るはなしではなかった。藤沢氏も自分のふところから、その不足分を補助するのだが、それもなかなか大変なので、藤沢氏は学校のために、当時活動写真に出演して、100円ずつをきまって学校に補助していた。
どうする連 堂摺連。明治20年代から大正初期、娘義太夫をひいきにして、佳境にさしかかると、客席から「どうする、どうする」と掛け声があがった人々がいた
まず生徒です。当初の入学応募者は200人強にあったそうです。尾崎宏次氏の「新劇の足音」(東京創元社、昭和31年)では……
新派俳優の藤沢浅二郎に、学校の設立をすすめたのは上山草人、日疋重亮、十川美寿也らであった。かれらは生徒募集の広告を読売新聞に大きくだしたので、応募者は約200人をこえた。それを試験で35名にへらし、最後に牛込の高等演芸館で再試験して、23名だけを正式にとったのである……
さて演劇学校は何を教わるのか、です。演劇博物館編「芸能辞典」(東京堂、昭和28年)では……
演劇学校 われ等の芸能は昔から徒弟制度で自得するように仕向けられていた。例えば歌舞伎では劇場の普通興行の中で、まだ本筋に入らない序開や二立目という、ろくに客の来ない暗いうちから始まる舞台で、修業中の若い人々が勉強する仕組みになっている。即ち狂言作者の見習は脚本を書き、囃し方、俳優の下廻り連中でそれを形象化して見せる。コンクールみたいなものである。日頃の勉強はといえば常に黒衣を着て、幕溜から先輩の舞台を見ていて覚えるより仕方がない。そういう習慣で長い間来ているので、明治以後新劇運動が起って俳優学校の必要が痛感されてからも、帝劇女優養成所(1909) 翌年帝国劇場附属技芸学校と改称、文芸協会演劇研究所(1909)、藤沢浅二郎の東京俳優学校(1909)、六世菊五郎の日本俳優学校(1930)、井上演劇道場(1936)等が創立されているが、その確立が学問的にも経営的にも難渋を極めている。終戦後、芸術大学に長唄のような邦楽部門を置くことが、方法論的に問題となったのを見ても分る。現在は早稲田大学・日本大学の芸術科や明治大学の演劇科等を別にすれば、東京にある俳優学校で信用の出来るものは、豊島区池袋の舞台芸術学院 (校長秋田雨雀)と港区麻布三河台の俳優座附属研究所位のものである。(浜村)
序開 じょひらき。下級の役者が早朝に演じた短い喜劇。踊りの三番叟、めでたい脇狂言の次に序開があった。
二立目 ふたたてめ。下級俳優によって行われた開幕劇
幕溜 まくだまり。左右に開閉する引き幕を開き、まとめておく場所。
さらに前出の「新劇の足音」では……
その教育という段になったときには、講師陣に喜多村緑郎や河合武雄がいるかと思うと、小山内薫や桝本清、土肥春曙、東儀鉄笛もいるという状態だった。そのため、小山内や桝本らは進歩的なことを教えるのに反し、藤沢、喜多村、河合らは新派風なやりかたを教えた。そのころ教えを受けた田中栄三は、「小山内先生は、自然にやれということを非常に強調して、舞台の寸法などにとらわれた演技をおぼえることはないといわれました。」といっている。そして試演会にのぞんだが、結果はただ自然らしく見えるというだけであって、演技の波動はひとつも伝わらなかった。小山内は、その舞台をみて、「君たちは自然らしくやることしか考えていない。舞台に上ったからは to be looked at ということを考えなければ、芝居にはならない。」
といって叱った。こんな逸話のあるかげには、校長の藤沢が、三味線をもったときのポーズなどをまことしやかに生徒たちに教えてもいたのである。藤沢の弟子であった上山草人は、そういう状況のなかで藤沢校長の指針がうきあがっていくのを見ていられなくなり、進歩派の桝本清を排斥するために同志21名をかたらってストライキをおこした。上山草人はそのとき短刀をつきつけて同志を一人ずつ集めたといわれているが、短刀ではなく、牛乳ビンのかけらを持っていたのだった。上山はこのストライキで失敗して、退校させられた。
桝本は早稲田の哲学科をでており、佐藤紅緑の弟子で、一時は歌舞伎の作者部屋にも入って脚本をかいたことがあったが、この事件以後かえって重要視され、学校の幹事になった。顧問に巌谷小波、主事に川村花菱、教師陣に井上正夫、市川高麗蔵、前沢誠助(松井須磨子の夫)らが名前をならべていたが、小山内、桝本らは講義中にも新派や歌舞伎の演技術をこきおろした。
この時期に新派と新劇の2つの系列があります。以前の日本には旧派の歌舞伎と能しかなく、新派と新劇のどちらも明治になって流行ったものです。「進歩派」の新劇は西洋演劇に傾倒していて、その代表は小山内薫や早稲田大学、その役は内面や人間性を重んじます。一方、新派(新派劇)は歌舞伎に似た形を使い、その代表はここでは校長・藤沢浅二郎で、当時は歌舞伎に似た形式と様式を教えますが、学校の組織で演劇理論や技術を教える点では完全な歌舞伎ではありません。
牛込袋町3番地で牛込高等演芸館を昼間に借りて、明治41年11月4日に合格者を決定し、11日に開所し、遅れて明治41年11月28日に開所式を行ないました。
新聞集成明治編年史第13卷によれば、明治41年11月28日、東京日日新聞では……
藤沢浅二郎が設立せる俳優養成所は、去4日入学志願者27名を試験したる結果、23名の合格者あり、既に教授を開始れど都合ありて開所式を行はざりしが、愈々本日午前10時より牛込高等演芸館にて式を挙ぐる事となりたりと、舞踊の教師たる市川高麗蔵が一昨日始めて同養成所に出勤したりと聞きたる記者は、歌舞伎座の楽屋に同優を訪ひて、如何なる教案を作られたるかを問いしに、高麗蔵(明治44年、七代目松本幸四郎と改名)否藤間先生曰く、養成所の生徒は年齢に大分差ある様なれば、是を皆一緒に踊を数える事は困難なり、然りとて一人宛手を探る訳にも行かねば何か新作の唱歌に自分が工夫して振を付け、其一挙手一投足が愈く絵となり彫刻となり得る様形を整え、是を教えて踊の根本たる体を拵える事にせんとて、養生所の学科部の先生に歌の新作を依頼し置きたり、歌は今様位の長さにて、早く云えば体操を教える様な工合に行る心算なりと。
田中栄三氏の「新劇その昔」(文藝春秋新社、昭和32年)では……
当日は劇壇文壇の名士が大勢列席して実に盛観だった。校長藤沢浅二郎氏の顔で新派の大幹部が顔を揃えた。川上音二郎、高田実、伊井蓉峰、喜多村緑郎、河合武雄、村田正雄の諸氏や、柳川春葉、佐藤紅緑、伊原青々園、中内蝶二、伊坂梅雪、原花外、石割松太郎、桑野桃華などの小説家や劇評家も出席した。帝劇の西野恵之助、有楽座の福島〆作、本郷座の坂田庄太氏や、牛込区長や神楽坂警察の署長も出席した。校長の挨拶に次いで顧問の巌谷小波氏が立って「生徒の数の23という数字は割り切れない数で、一致団結を必要とする劇団にとって、まことに縁起のいい数である。」という気の利いた挨拶をした。


当時の時間割は「学科課程及毎週授業時間表」(東京都立教育研究所編「教育じほう」 東京都新教育研究会、1988年4月。下図)で見ることができます。私にはいくつか読めないものがあり、心理学の「表情色彩音楽」、歴史の「欧州史」、劇術の「台詞 動作 発声 扮装 表情 等」、歌謡の「唱歌 長歌」です。

学理部(午前。倫理、語学、脚本など)と技芸部(午後。劇術、舞踊、絵画など)の2つに分かれました(田中栄三「新劇その昔」文藝春秋新社、昭和32年。松本伸子「明治演劇史」演劇出版社、昭和55年)。
石沢秀二氏の「新劇の誕生」 (紀伊国屋新書、昭和39年)では「新劇その昔」の大意を引用し……
授業は午前中がおもに学科で、午後が実科といわれ、「科目が余りに多いので、午前9時から午後の5時まで、毎日8時間授業で週一杯に組まれていた」という。そのおもな内容は、小山内(薫)の「脚本概説」が西欧近代劇研究であり、小山内はマシウスの“ドラマツルギイ”の講義も持った。「芸術概論」は桝本清。ほかには倫理学(仏教哲学の吉田修夫)、心理学(菅原教造)、音楽心理(田辺尚雄)、日本風俗吏と有職故実が箏曲の大家鈴木皷村という珍しい人が教え、日本史は松井須磨子の最初の夫前沢誠助、英語は文士俳優でもある荒川重秀と桝本、仏蘭西語は佐々木信造であった。
実科は藤沢浅二郎の劇術で『金色夜叉』、『葉村年麿』(土肥春曙の翻案)などを教材にしたという。土肥春曙もエロキューション(発声法)を教えた。市川高麗蔵(先代松本幸四郎)は日本舞踊とメーキャップ。メーキャップはドーラン化粧やヒゲのつけ方など赤毛物の扮装術だったという。長唄は吉住小三郎、清元は八木満寿女、義太夫は竹本小住、声楽は北村季晴・初子夫妻。そして洋画(北蓮蔵)、日本画(久保田金遷)も教えたという。
赤毛物 西洋の戯曲や小説を翻案・上演する歌舞伎や文楽を指す用語
洋画の指導にあたった北蓮蔵氏の話があります(歌舞伎編輯所編「歌舞伎」101号、歌舞伎発行所、明治41年)。
俳優養成所と洋画
今度私は小山内薫君からの話があって、藤沢君が発起された俳優養成所の科目の一部の洋画の教授を一週に一時間づつ引受ける事を承諾しましたが、私の立場として教えるものは、第一に顔面の表情に就いてでありますが、表情を初めからするのは無理でもありますし、最初話では幾ら話した処で呑込めまいと存じますから、先づ石膏の肖像を備えて、これを土台として顔面の説明をしつつ、木炭で形を合せる事から始めて、それから表情と色彩の事に及ばようと思って居るので、これが追々と進んだ処で、俳優が背景を描く必要はないのでしょうから、背景と前に立つものとの調和に就いて、大いに研鑽を要し、主幹藤沢君の成功を期して、その任に当る積りなのです。
田中栄三氏の「新劇その昔」(文藝春秋新社、昭和32年)では……
われわれは学校に通うのに皆な和服に袴を付けていた。それ故せめて制帽でもかぶれというので、日本画の講師の久保田金遷画伯にデザインをして頂いた。三越からできて来た帽子は恐ろしく派手なもので競馬の騎手のかぶるような恰好の濃いコバルト色のビロードで作ってあった。左り横に白い大きな鵞ペンのような羽根が差してあった。それをかぶって通学するのが、ひどく気がさして嫌だった。神楽坂の通りなどはきまりが悪くて歩けなかった。一箇3円50銭位で三越へ註文したのだが、生徒が代金を払わないので、三越からいつまでも催促されて困ったことを覚えている。
藤沢浅二郎氏の「俳優養成所の昨今」(「歌舞伎」102号、歌舞伎編集所、明治42年)では……
開所後の有様は如何かと言ふのですか。——お詞 に従い聊か私の所感を申して見ますれば、現在23人の生徒が、午前9時からというのを、まだ事務員の来られない前の8時頃から詰かけるという非常な熱心の程には、私に取っては何より嬉しい事です。(中略)
そこで只今の処、生徒は何れの課目とも大に楽みにて修業して居りますが、併し私の希望は、始まりだから教わる方も教える方も気が乗つて居るといふ訳でなく是非とも倦ずにやって貰いたいのです。故に私は生徒に向って、「今日諸君が熱心にやっておらるのは結構でありますが、何しろ三年間ですから何うか厭ずにやって欲しいのです。幸い今日はお蔭と社会から冷かされず、真面目の事業と見られましたが、往々こういう仕事は不真面目のような、一時的の好奇心から出たなぞと言はれ易いのです。
川村花菱氏の「随筆・松井須磨子 — 芸術座盛衰記」(青蛙房、昭和43年)では……
あまりにも理想家の桝本氏は、毎日おなじ芝居の稽古ばかりして、その稽古もいつも気に入らないだらけで、おなじところを繰りかえし繰りかえしやるだけなので、生徒もいいかげんうんざりしていた。そんなわけで、学校は開校以来、一度の試演も行なわず、すなわち俳優になりたくて集まった生徒は、いくら待っても芝居の真似事もさしてもらえず、白粉のつけ方、紅のぬり方も知らないというのだから、しびれを切らすのも無理はなく、月謝を払わないのも理屈がある。その間に、桝本氏は、井上正夫と“新時代劇”を起こし、まったく学校の方は投げ出してしまった。困ったのは藤沢氏で、そこで私が桝本氏に代って主事になって、その第一の仕事として、毎月末、寄席の休みの日を借りて、試演を開くことにした。(中略)
学校が試演をはじめてから、学校の生気は急にみなぎりあふれて、月謝もどんどん集まるし、新入生もふえて来た。そして第一回の卒業生の公演が、有楽座で行なわれるまでの機運になって、学校は活気立った。学校が盛んになって、ようようその地盤がかたまりかけた頃、ある日、桝本氏は私のところへ来て、
「君が学校をやってから、学校が非常に通俗的になって、ひどく評判が悪い。学校はもう一度僕がやるから、君はやめてもらいたい」
という藪から棒のはなしをした。カチーンと来た私は、すぐに学校をやめてしまった。骨を折って叱られたから、傘屋の小僧の私にも言い分はあるが、桝本氏にも言い分があったのだ。それは、学校が試演をはじめてから、芝居の稽古でいそがしかった。そのためか、生徒は芝居の稽古は出るが講義の方へは出席しなかった。
それだから、講義を受け持った先生方はまったく用がなくなったので、これに面白半分講義を続けていた先生達は、面白くなくなった。その人々が、桝本氏をうごかしたので、理想家の桝本氏は、教養方面の大切な事を第二にして、実演に重点を置いた私のやり方がいけないというのだった。勿論、いい俳優を作り出すという点からいえば、桝本氏の考え方が正しく、学校の経営という点から考えれば、私のやり方にもいささか信念はあったわけだ。
私が学校をやめたのに一番おどろいたのは藤沢さんで、第一回卒業生の公演を目の前に控えて、私のいなくなった事は、大変な支障だった。藤沢氏は、毎日忙がしい芝居のあいだに、私のところへ訪ねて来られて、極力意を懇請されたが、若い私はどうしても動かなかった。藤沢さんは私に、竹内栖鳳の藤の花を描いた二枚折りの屏風をくれた。
「ながいあいだお車代もあげず、失礼を重ねていたが、なんとしても今私に金がない。これであなたの今日までの労苦をねぎらい度いと思います……」
松本克平氏の「日本社会主義演劇史 明治大正篇」(筑摩書房、昭和50年)では……
型にはまる演技を敵視した小山内と桝本の指導は、当然高麗蔵や藤沢校長の指導と食い違いを生じ、生徒たちは困ったが、間もなく彼らは先生によって演技の使い分けをすることを覚え、本番の舞台はみんな小山内流のリアリズムでやってしまった。生徒たちはガミガミ怒鳴りつける小山内先生の癇癪にビクビクしていた。ほめられた生徒は一人もいなかった。だが舞台稽古は真夜中の三時までつづけられ、そのあと神楽坂から神田三崎町まで生徒といっしょに歩いて大黒屋という安宿の一室で、みんなといっしょに夜の白むまで語りつづけた。まことに熱心であった。かくて初日を迎えた。開会の辞についで幕間に左の三人の先生の挨拶があった。
1 開会の辞 藤沢浅二郎校長 2 挨拶 鈴木鼓村
3 将来の劇壇 巌谷小波 4 未熟な芸 小山内薫
半年後の明治42年4月24、25日、第一回試演会が牛込高等演芸館で行われました。田中栄三氏の「新劇その昔」(文藝春秋新社、昭和32年)では……
この稽古は一月から四ヵ月間、毎日熱心に続けられた。女優が一人もいないから、諸口十九も岩田祐吉も私も皆な女形に廻わされた。小山内先生は多大の時間をかけて演技指導に熱中された。河合武雄の弟子の岩田祐吉や、伊井蓉峰の弟子から六代目(尾上菊五郎)の弟子になっていた稲垣喜久次郎が、稽古中に玄人振った先輩顔をして「ここは手の来るところだ。」とか、「ここが受け場だからしっかりやろうぜ。」などといったので、小山内先生がエラク怒った。「手が来るとは何だ。前受けや場当りは芸のバチルスだ。新派の芸は外道だ。旧派や新派の真似をする奴はこの学校に来るな。君達は歌舞伎や新派にない別な新しい芝居を創り出すんだ。自然に演れ。自然に演るんだ。」と叱咤激励された。岩田や稲垣も先生の意気に感じて、古臭い芸を脱ぎ捨てようと努力するようになつた。
桝本氏は高麗蔵丈や藤沢校長の付けた芝居を「そんな型に嵌った演技をするな。類型的な演技は時代の遺物だ。」とこきおろして、「本当の生きた人間を自然に描写しろ。」と指導した。
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館編の「図録 第2集」(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、昭和53年)では……
当日(第一回試演、明治42年4月24、25日)は校長藤沢浅二郎の開会の辞、講師市川高麗蔵(のちの七世松本幸四郎)の挨拶、小山内薫の「未熟な芸」と題する話、巌谷小波の「将来の劇壇」という話につづいて、山崎紫紅作「日蓮雨乞」(一幕)、佐野天声作「賢き人」(一幕三場)、G・エンゲル作、吉田白甲訳「革命の鐘」(一幕)、「スケッチ」(一場)が上演された。
神崎沈鐘氏の「俳優養成所の試演を見る」(『新声』明治42年)は、松本克平氏の「日本社会主義演劇史 明治大正篇」筑摩書房、昭和50年から引用しています。
革命の鐘 此の日の劇中最も優れたもので、又芸も非常に旨く出来た。前の二幕とは全く雲泥の差があると思う。自分もこう云う劇は今まで一度も見たことが無いので、珍らしい為かも知れぬが、全く感服して仕舞った。流石に西洋人の書いたものだけあってドッシリと重味がある、稲富のナアゲル、諸口のヘレネは異彩を放って居た。所が此の中で西洋人らしいのは、博士、リツヒアルト、ヘレ子、ナアゲルエミリーだけで、他は皆日本人で砲兵工廠の職工や医者の代診と云風に見えた。然し此れが試演であって見れば、設備の不完全は已むを得ぬ事で、芸になって居るかどうかを見れば十分であらうと思う。
この「革命の鐘」は 小山内薫氏が演技を指導しました。
第2回試演は明治42年11月20-24日に行い、作者吉井勇、舞台監督小山内薫の「浅草観音堂」、作者と舞台監督は桝本清の「非国民」、作者山崎紫紅、舞台監督は市川高麗蔵と藤沢浅二郎の「小西の捕われ」、原作はアイルランド、訳は小山内薫、舞台監督は藤沢浅二郎の「貧民院」の各々1幕物で4種類上映しました。
明治43年2月、東京俳優養成所から東京俳優学校になり、改名を披露するため、昭和43年4月2、3日で第3回試演会「東京俳優養成所改称東京俳優学校」を行いました。各々1幕物で4種類上映できました。
しかし、川村花菱氏の「随筆・松井須磨子 — 芸術座盛衰記」(青蛙房、昭和43年)では、学校には資金が足りなそうだと危ぶんでいる光景がありました。
ある冬の雪もよいの日に、控所の火鉢には火が一つもなかった。私もさぶかったが、生徒も寒いだろう。私はそこで田中氏に火を求めると、田中氏は、すぐにも火を起こしてくれそうな返事だったが、いつまでたっても駄目なので、再三さいそくすると、「それが、実は、炭屋が炭を持って来ませんので……」という返事だ。
「そんなら早くさいそくして下さいな」
「それがその、さいそくしても持ってまいりませんで……」
事情をきくと、学校で炭屋に炭代を長いあいだ払っていないので、炭屋が怒って持って来ないということが分かった。そこで、私はしかたなしに、それなら、僕が自分で払うから、一俵届けさしてくれ、即座に現金で払うからと、炭屋に言ってもらうことにした。まもなく、身の頭を黒くした中僧が炭を一俵かついで来た。その代は45銭だった。私が炭代を払おうとすると、「あッ、川村さんの坊ちゃんじゃありませんか」
と、その中僧がおどろいた。見ると、それは私のいる町内の炭屋の二番目の枠だった。修業のための奉公だから、まことに久しぶりの対面だった。
「そうだよ……」
「坊ちゃん、此処に何してるんです」
「僕は此処の先生だよ」
と答えると、炭屋は、やんぬるかな、というような顔をして、「坊ちゃん、およしなさい、こんな所にかかり合うのはおよしなさい……大変ですから」と、しみじみと言ってくれた。私は炭屋の好意に対して、ありがたいと思ったが、世間の人の見る“変なところ”に仕事をしていることが、ほこらしい事と思ったのだ。それ以来、炭屋は、私が関係しているあいだは炭は黙って届けるということになって、若者はふりかえりふりかえり帰って行った。
私が俳優学校で何をしたか。何ひとついい事をしなかったとしても、炭屋と学校とのルートを円満に解決した事と、七円の月給をついに貰わなかった事だけだ。(中略)
また、明治43年2月、女優も募集したいと思い、しかし、東京都立教育研究所編「教育じほう」(東京都新教育研究会、1988年4月)では……
東京俳優養成所は男優養成ということで出発したから、43年2月、東京俳優学校になっも生徒は男子だけであった。ところが、藤沢は同年10月に学則変更申請を東京府に提出している。変更しようとしたのは規則第5条(前述の規則では第6条)で、「本校ニ入学セントスル者ハ年齢満17歳以上25歳以下ノ者ニシテ中学校高等女学校卒業若クハ是レト同等以上ノ学力ヲ有シ(下略)」と改めようとしている。今日から見れば当然な要求といえるだろう。
ところが、藤沢は当局の認可を待たないで、早々と萬朝報に「女優生徒募集」の広告を掲載してしまったため、役所の方から「不都合ノ次第ニ付キ至急広告取消」をせよと申しつけてきた(中略)学則変更の申請は「詮議相成難シ」ということで不認可になってしまった。役所が不認可の理由として挙げたのは、「男女共学ハ風紀上ノ害アルモノト御認候ニ付」という点であった。

東京俳優学校第一回卒業生 明治44年7月

(上左より)川村花菱主事・藤沢浅二郎校長・巌谷小波顧問
(二段目左より)岩田祐吉・稲富寛 (三段目)田中栄三・神林末蔵・羽田不二男
(四段目)近藤主弥・宇田省三・村上進吾(五段目)諸口十九・森垣二郎・日疋重亮
田中栄三氏は「追憶記」(『新演芸』2巻4号)の中で、3年後の卒業者は……
先生が血を分け肉を削って育て上げた23人の生徒の中からは、3年後に僅か11人の卒業生を得たに過ぎませんでした。そして、この11人の中でも現在劇壇にあって俳優生活をしている者は、僅々6、7名の少数になってしまいました。私はよき先生のために、これをいたく悲しみます。
2期生と3期生、合わせて22人は明治44年の第5回「試演劇会」が終わると、学校が解散になり、そこでこの22人のうち、10人は有楽座の「土曜劇場」にはいり、2人は「新時代劇協会」に、3人は新派に、残り7人の舞台はなく、消息不明でした。また、藤沢浅二郎の私財は乏しく、「健康もいなくなり」(川村花菱著「随筆・松井須磨子」青蛙房、昭和43年)、家賃の滞納も続き、経営難で、つぶれてしました。
松本克平氏の「日本新劇史 – 新劇貧乏物語」(筑摩書房、 1966)では……
藤沢の俳優学校は最初から経営が苦しかった。それは藤沢一人が私財を投げ出してはじめた犠牲的な仕事であったからである。修業年限は三年。明治44年6月に第一期生11名の卒業公演を有楽座でやって間もなく、意外な不幸が起こった。それは校舎である牛込の高等演芸館主の佐藤某から今後の演芸館使用を断わられたのであった。理由は家賃の未払いであった。この宣告は致命的であった。当時はほかに試演のできるような会場はなかった。有楽座は使用料が高くて手が出なかった。新派の名優たちも藤沢の義挙には冷淡であった。藤沢校長にはもはや資力がなかったので、涙をのんで解散しなければならなかった。
これをきいた有楽座の新免支配人は、毎週土曜日だけ有楽座を定期的に提供して「土曜劇場」をはじめ、そこへ卒業生、二期生および研究生を出演させることにして、利害を離れた義俠的な援助をしてくれたのであった。俳優学校は表面一時休校ということにした。大正元年11月のことであった。俳優学校は最初から悲運であった。藤沢校長は新派の後継者を育てるために起こしたに拘らず、卒業生は岩田祐吉一人を除いて全部が新劇へ走ってしまった。
新免支配人 新免弥継。しんめんみつぐ。明治41年、有楽座は日本初の全席椅子席(靴を脱がずに椅子に座って鑑賞する)の洋風劇場として開場。新免氏はその支配人として劇場の運営を担いました。
さて、藤沢浅二郎氏も死亡します。明治大正昭和新聞研究会「新聞集成大正編年史 大正6年度版 上」(昭和54年)では……
予て脳病にて静養中なりて新派藤沢浅二郎は(大正6年3月)3日午前7時浅草区今戸町21の住居で死去せり。享年52歳(満50歳)(中略)
大正3年4月明治座の「深沙大王」の興行中卒倒せるが基にて舞台を退きその後一時快方に向い新富座の新派大合同に軽き役を勤めしもこれも中途にて倒れて再び入院し退院後1昨年の暮俳優を廃業し京橋区中橋大鋸町4に乙卯堂と称する
◇売薬化粧品店を出し、傍ら日活の撮影◇
監督をなし居りしも昨年4月中3度発病し5月中相州大船鎌倉道の常楽寺の1室を転地静養し居りしに稍全治に近き状態となりしに帰京し中橋より目下住居へ引移り佐野博士の治療を受け居りしが終に立たざるに至れるなり
大正期は失意の時代であった。俳優をやめて小間物店などを営み生計を立てていたが、大正6年3月3日浅草今戸の侘住宅で没した。(早稲田大学演劇博物館「演劇百科大事典 第5巻」平凡社、1961)
大正3年4月明治座の「深沙大王」興行中卒中倒して、舞台を退くに至った、その後、新富座などに勤めたことも再び倒れ、ついに廃業、京橋区中橋大鋸町で乙卯堂という売薬化粧品店を出し、傍ら日活の撮影監督を務めたりした。(稲村徹元、井門寛、丸山信共編「大正過去帳 – 物故人名辞典」東京美術 1973)
脳病は脳に起きたあらゆる病気で、一方、卒中は突然に急激な症状が出る病気です。脳卒中は脳血管の病気で、脳梗塞(約70〜75%)、脳出血(約15〜20%)、くも膜下出血(約5%)です。
当時の俳優では白粉による慢性鉛中毒もありえます。五代目中村歌右衛門(当時は四代目 中村福助)は明治20年(満21-22歳)に手足のしびれや腹痛などが発症、天覧歌舞伎の舞台上で倒れ、丸1年近く休演しました。また、復帰しても四肢は徐々に不自由となり、死亡は昭和15年の74歳でした。しかし、藤沢の場合、他の症状は何になく、考えにくい疾患です。
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