牛込会館[昔]|神楽坂3丁目

 牛込区史編纂会編の「牛込町誌 第1巻(神楽町及若宮町之部)」(牛込区史編纂会、大正10年)では……

貸 席 株式会社 牛込会館 神楽町3の2
創 立 大正10年5月16日
発起人 星野四郎外17人
目 的 貸席及付属建築物の賃貸
資本金 金10万円(一株金20円全額払込)
株 主 設立時268名
役 員 (省略)
当会館は大正10年5月21日起工建築中にして落成の上は神楽坂上1大異彩たらん

 また商業興信所は1900年から今までの会社について「日本全国諸会社役員録」を調べています。ここでは「牛込会館」は大正10年2月、設立し、目的は「家屋賃貸」と「席貸」です。「家屋賃貸」とは「賃料を取って、家屋を貸すこと」。「席貸」とは「席料をとって座敷や会場を貸すこと」 。席貸業とは、宴会・会合・稽古事・演芸などで部屋や座敷を貸す業態です。実際に何を借りて行ったのか、これだけでは不明です。

 昭和45年、新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「神楽坂通りの図—古老の記憶による関東大震災前の形」では……

石垣の上に浴場と歯医者があって、通称温泉山と云った。震災直後牛込会館となった。大正12年12月17日震災后、初めて水谷八重子の演劇公演「ドモ又の死」「大尉の娘」「夕顔の巻」あり入場者は電車とおりまで並び、満員・札止めとなる。のち会館は白木屋となる。
新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「神楽坂通りの図—古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)

 野口冨士男氏の「私のなかの東京」(『文學界』昭和53年)では……

 さらに(「神楽坂通りの図」)の下部には≪歯医者 浴場≫とも書きこまれている。そして、神楽坂倶楽部の場合と同様に、地図の余白部には次のような註記がみられる。

  石垣の上に浴場と歯医者があって、通称温泉山と云った。震災直後牛込会館となった。大正12年12月17日震災後、初めての演劇公演「ドモ又の死」「大尉の娘」「夕顔の巻」あり入場者は電車どおりまで並び、満員札止めとなる。のち会館は白木屋となる。

 白木屋は日本橋交差点の角にあった百貨店——現在の東急百貨店の前身で、神楽坂店はそこの支店であったが、舟橋聖一は『わが女人抄』中の『水谷八重子』の章で、彼女に最初に会ったのは≪大正大震災の直後、神楽坂の牛込会館で演った「殴られるあいつ」(アンドレェエフ)の舞台稽古の日≫であったと記している。半自伝小説『真贋の記』ほかによれば、舟橋の母方の叔父が八重子の劇に出演していた俳優の東屋三郎と慶応の理財科で同級だったために、叔父の案内で東屋を訪問して彼女に紹介されたというのが実相らしいが、私も演目はなんであったか、神楽坂の検番をも兼ねていた牛込会館で八重子の舞台をみている。その折の記憶によれば、客席は畳敷きであったから、演劇興行のない日には芸者たちの日本舞踊の稽古場になっていた様子である。会館の入口は石段になっていたが、白木屋にかわると、その部分が足場をよくするために傾斜のある板張りになった。会館や白木屋は『神楽坂通りの図』にあるように高い石垣の上にあって、昭和年代に入ってから石垣は取り払われたが、その敷地は現状でいえば角の婦人服店からジョンブルというスナックのあたりまでだったようにおもう。

 つまり(1)演劇公演と(2)日本舞踊稽古場が牛込会館の用途でした。

 水谷八重子や花柳はるみが牛込会館で演劇を公演しました。舟橋聖一氏の「わが女人抄」(朝日新聞社、昭和40年)では……

      水谷八重子
 水谷八重子のことは、40年昔にさかのぼる。はじめて会ったのが、大正大震災の直後、神楽坂の牛込会館で演った「殴られるあいつ」(アンドレェエフ)の舞台稽古の日だが……(中略 水谷八重子」の項を参照)
      花柳はるみ
 今日では、この女優の名を知っている人は極く少ないだろう。「わが女人抄」の中で、たまには、こういう知られない人について書くのもよかろうと思う。
 私がこの名を忘れられないのは、そもそも私の戯曲がはじめて舞台に上演されたときの主演女優だからだ。その幕明きを、私は胸を轟とどろかせて待ったのである。
 普通の年表などでは、私の戯曲の処女上演は心座の第三回公演で「痼こ疾しつ者しゃ」という一幕物にはじまるとされているが、実際にはその一ト月前(大正15年) 5月、神楽坂の牛込会館で、「研劇協会」という劇団が、私のものを取上げてくれたのが、生れてはじめての舞台上演であったのだ。それが「朱門」の一月号に載った「骨」という一幕物で、表現派気取りの暗い芝居だった。
 牛込会館という小屋は、神楽坂から牛込見附のほうへ降りて行く坂の途中の左側にあって、地階は食堂であった。一階、二階が演芸場風になっていたが、大震災で東京の劇場がほとんど焼けたところから、寄席まがいの会館を改造しても、芝居をやる外はなかった。水谷八重子が汐見洋と「殴られるあいつ」を演じたのも、この小屋である。

痼疾者 こしつしゃ。容易に治らないで、長い間悩まされている病気。慢性疾患の患者。

 つまり、牛込会館の一階、二階は演芸場風、地階は食堂、桝ますになった客席です。桝席は1.5㎡正方形の四角い区画で、一枡は基本として2人〜4人分の座布団が置かれています。

空想の枡席。江戸時代の実際の浮世絵や写真を参考に、大正時代の劇場を想像で描く。1.5メートル四方の枡席を、縦横整然と並べる。1枡は4人入る。椅子はなく座布団に座る。枡席の木枠は膝より少し低い程度。枠は低い木枠だけで区切られている。1階は枡席、2階は桟敷。明治・大正期のモダンな洋風建築を

 舟橋聖一氏の『真贋しんがんの記き』(新潮社、昭和42年)「雲の浪の章」です。

 ——或る日、東京の築地小劇場から、手紙が来た。よく見ると、例の葡萄のマークはついているが、差出人は俳優の東屋三郎だつた。東屋は慶應理財科の出で、慶吉の母方の叔父とクラスメートだった関係で、彼が汐見洋と共に、水谷八重子の楽術座に出演した頃から、楽屋をたづねたり、舞台稽古を見せてもらったりしていたのである。
 来信の内容は、慶吉が「歩行者」に発表した曲「佝僂くるの乞食」を、小山内薫先生が読んで面白いと云われたから、一度上京の折を見て、四谷坂町のお宅へ伺ってみてはどうか。ひよっとすると、いい話があるかも知れない。「海戦」でスタートした築地小劇場は、至って好評で、第五回公演には、カール・チャペックの「人造人間」四幕を上演。自分はプスマンを演るから、見物してくれ云々とあった。
 慶吉は嬉しさに部屋中飛回りたい程だったが、ジッと抑制していた。ことに、早見にはそぶりにも知られたくなかった。ひとりで、「佝僂の乞食」を読み直した。討論会で、クソミソにこき下されたあとなので、その報復的な感情も強かった。

葡萄のマーク 劇場の正面外壁のシンボルだったが、劇場の認証バッジとして封筒や切符、プログラムなどに広く用いられていた。
築地小劇場
佝僂 ビタミンDなどの欠乏。カルシウム・リンが骨基質に十分に沈着せず、骨変形(O脚・X脚など)、成長障害などを起こす。「佝」と「僂」とは共に背中が曲がっていること。

 昭和女子大学近代文学研究室編の「近代文学研究叢書 第22巻」(昭和女子大学、昭和39年)では……

大正13年1月 峠の春(川村花菱) ハンネレの昇天(イプセン)雪の信濃路 喧嘩友達 人間座 牛込会館
2月 ドモ又の死(有島武郎) 友田恭助 水谷八重子 その妹(武者小路実篤) 山田隆彌 岡田嘉子 真間の手古奈(小寺融吉)八重子 人形の家(イブセン)八重子 牛込会館

 松本克平著「日本社会主義演劇史 明治大正篇」(筑摩書房、昭和50年)では……

 このイプセン会が第1回の試演を持ったのは大正12年6月、牛込の永楽クラブにおいてであった。「柿実る村」(仲木貞一作)、「地下室」(中村吉蔵作)、「大殺し」(藤井真澄作)の三本が、新国劇演劇研究所生徒によって行われた。この時特別に19歳の水谷八重子が「汐波」を踊った。それが関東大震災でしばらく中止されていたが、翌年復活、13年12月25日、26日、27日の三日間牛込会館で開催された。演目左の通り。
(1)「ハンネレの昇天」(5場、ハウプトマン作)
(2)社会劇「地下室」(1幕、中村吉蔵作)
(3)「令嬢と大」(1幕の表現派劇、藤井真澄作)
 出演者は新国劇研究所第1回卒業生の根本淳、高崎卓、水守順、正野義夫、金平軍之助、小松弘明、西条静子、吉村米子、関井はる子。補導佐々木積。特別出演——夏川静江、室町歌江であった。
 補導佐々木積となっているが、水谷竹紫のプロデュースであったという。まずここで抱く疑問は、なぜ沢田正二郎の新国劇演劇研究所生徒がイプセン会の芝居に挙って出演したかということである。これにはいろいろ事情があった。新国劇は浅草馬道に「新国劇附属演劇研究所」と称する学校を開いていた。校舎は新国劇が座員の寮にしていた家であった。校長は中村吉蔵であり、講師は水谷竹紫、仲木貞一、菊池寛、額田六福、秋田雨雀、高田保、岡栄一郎らであった。中でもいちばん生徒の面倒を見てくれたのが水谷竹紫であった。竹紫は藤井真澄、仲木貞一らと共にイプセン会の有力メンバーであった。
 一方で、竹紫はすでに12月10日から水谷八重子を中心にして芸術座を再興、神楽坂の牛込会館を根城に公演していた。この再興芸術座の間を縫ってイプセン会研究劇を藤井、仲木が計画したのである。ところで13年6月に開場した築地小劇場へ、それまで芸術座を手伝っていた東屋三郎、友田恭助、青山杉作、河原化二、田村秋子らが次々に動いていった。そのために竹紫は芸術座の座員を何とかして確保しなければならなかった。そこで藤井、仲木の要望にも答えながら、竹紫が教えていた新国劇研究生らをごっそりイプセン会に出演させたのであった。想像出来るように、馬道の新国劇の校舎はすでに震災で続けてしまい、研究所は有名無実の宙ブラリンで新国劇ですら劇場がなく、焼野が原になった東京市民に野外劇や天幕劇場で芝居を見せていた窮乏の時である。(やがて赤坂演伎座と提携するようになった)それで研究所は中止せざるを得ず、研究生に卒業免状を与え、希望者は研究生に採用するが、自由行動をとってよろしいということになっていた。それに研究生の中にも時代劇派と現代劇派があって、現代劇派の浅野慎二郎(現在の進治郎)らはこれ幸いと京都に走って青春座の看板をあげて、藤井真澄の「科学食糧会社」などをやっていた。そこへ竹紫から誘いがかかったので、藤井真澄の脚本をやらせるなら出てもいいというので、イプセン会研究劇に出ることになった次第であった。竹紫はこうして沢正との間に問題を起すことなく、研究生の現代劇派を芸術座に吸収したのである。こうして浅野慎二郎、金平軍之助らは芸術座員になった。藤井真澄がイプセン会という他人の褌で相撲を取ろうとしたところ、実際家の竹紫は藤井のうわ手を取って、藤井作品を演りたがっていた青春座員に餌を与えて、巧みに彼らを芸術座にさらってしまったのである。それだけでこの研究劇はポシャッてしまい、藤井真澄の民来劇団の夢も消滅、彼は急速にファッショ化したという次第である。(浅野進治郎談による)

イプセン会 大正10年(1921)に結成し、舞台上演や俳優育成を目指した演劇組織。主宰は中村吉蔵(自称:ヘンリック中村)で、早稲田大学の劇作家・演劇研究家。
永楽クラブ 麹町区永楽町二丁目。現在の千代田区大手町。
沢田正二郎 俳優。文芸協会・芸術座を経て、劇団「新国劇」を創立。「赤城の山も今夜を限り、生れ故郷の氏神様ともお別れ言い難い……」「春雨じゃ、濡れてまいろう」などは有名。

 久保田万太郎氏の「袴のはなし」(中央公論社、久保田万太郎全集 第11巻、昭和50年)で、大正12年(1923)10月6日に

袴のはなし
 震災直後、牛込の牛込会館という貸席で、焼出されの花柳章太郎だの、藤村秀夫だの、松本要次郎だの、そのころの新劇座の同人たちがあつまって、東京の復興にさきがける目的でのしばいをやったことがある。……巻ゲートルだの、足袋はだしだのの人たちの、また、さかんに行交っている神楽坂の往来に、そのしばいをみる人たちが、開場時間もまだ来ないうちから、1町あまりの列をつくってつづいていたことを覚えている。

〜だの〜だの 体言または活用語の言い切りの形について物事を列挙する。好きだの嫌いだのと言う。(巻ゲートル)だの(足袋はだし)だの…の人たち
さきがける 他に先んじて事をする。
巻ゲートル 小幅の長い布を足首から膝下まで巻き上げ,端につけた紐で結び留めるもの。脚に密着し,行軍時に便利
たびはだし 足袋跣。下駄や草履を履かないで、地面を足袋のまま歩く。あわてて屋外に出るや、祭礼のときの服装など。
1町 約109メートル(60間)
開場時間 大正12年(1923)10月6日です。

 「長唄」(歌舞伎の三味線長唄)について、牛込会館が利用されていたかは不明です。しかし、現代では花街・神楽坂で長唄のお稽古もあります。例えば、杵屋弥佶三味線教室(新宿区横寺町47)、SEION 神楽坂店(袋町)、杵屋勝国悠三味線などです。牛込会館を使って長唄の稽古場がないということは信じられないことですが、不明です。

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