作家(か行)

神楽坂はん子 かぐらざかはんこ。東京の下町育ち。16歳、神楽坂の芸者に。宴席で作曲家の古賀政男らに才能を認められ、21歳でコロムビアに入社。昭和27年「こんな私じゃなかったに」「ゲイシャ・ワルツ」が大ヒット。身許引受人の意向で3年で引退。8年後に復帰したが、再び体を壊し芸能界から引退。孤独死。本名は鈴木玉子。生年は昭和6年(1931)年3月24日。没年は1995年6月10日。64歳、
加藤武雄 かとうたけお。小説家。小学校教員として働き、上京、新潮社に入社。『新潮』の集に。農民文学作家として活躍。著書は『明治大正の文学早わかり』『郷愁』『夢見る日』等。生年は明治21年5月3日。没年は昭和31年9月1日。68歳
葛西善蔵 かさいぜんぞう。小説家。「奇蹟」同人。大正期の破滅型の私小説作家。抒情と飄逸味に満ちた心境小説の佳品。「哀しき父」「子をつれて」「放浪」など。生年は1887年(明治20年)1月16日。没年は1928年(昭和3年)7月23日。42歳
片岡鉄兵 かたおか てっぺい。小説家。慶応大学中退。13年横光利一、川端康成らと「文芸時代」を創刊。新感覚派の作家として「綱の上の少女」などを発表。プロレタリア小説に転じ、昭和5年、検挙され転向。「朱と緑」「花嫁学校」など大衆小説を多作。生年は明治27年2月2日。没年は昭和19年12月25日。51歳。
片上伸 かたがみのぶる。評論家、ロシア文学者。1906年早稲田大学文科卒業。最初は「天弦」の号で執筆活動があった。早稲田大学文学部教授 (1910~24) 。自然主義から次第に唯物史観の立場にたち、プロレタリア文学の興隆期に啓蒙的な文芸評論で活躍。生年は明治17年2月20日。没年は昭和3年3月5日。45歳
加能作次郎 かのうさくじろう。小説家。生年は明治18年1月10日だが、実際は前年だという。没年は昭和16年8月5日。早稲田大学英文科卒業。博文館入社後、田山花袋に師事。地味だが情味あふれる作風。大正期私小説の中堅作家として活躍した。
鏑木清方 かぶらき きよかた。日本画家。明治35年「一葉女史の墓」で注目を集め、以後浮世絵の伝統をいかした作品を発表。帝展審査員に。昭和12年芸術院会員。29年文化勲章。作品はほかに「築地明石町」など。著作に「こしかたの記」。生年は明治11年8月31日。没年は昭和47年3月2日。93歳。
上司小剣 かみつかさ しょうけん。小説家。大阪に出て堺利彦に会い、そのすすめで上京。1897年、読売新聞社に入り、以後二十数年にわたって在社、文芸部長、編集局長など。おくれて読売に入社した正宗白鳥と親交し、堺利彦や幸徳秋水らとも交際。生年は明治7年12月15日。没年は昭和22年9月2日。73歳。
上村一夫 かみむらかずお。劇画家。武蔵野美大デザイン科卒。昭和47年、劇画「同棲時代」で、広告会社の女性と男性のイラストレーターの出会いを描いた。「昭和の絵師」とも。生年は昭和15年3月7日、没年は昭和61年1月11日。45歳。
嘉村礒多 かむらいそた。小説家。中村武羅夫の知遇を得て、雑誌《不同調》の記者となり、葛西善蔵に師事。自己の姿を赤裸々に描いた典型的な私小説作家。生年は明治30年12月15日、没年は昭和8年11月30日。結核性腹膜炎で死亡。37歳。
金子筑水 かねこちくすい。哲学者、評論家。東京専門学校を卒業後、1903年ドイツに留学,帰国後早稲田大学教授として哲学、美学などを担当。精神文化を重んじる文化主義者として第1期『早稲田文学』や『太陽』に穏健中正的な立場から諸論文を発表。生年は明治3年1月10日、没年は昭和12年6月1日。67歳。
金子光晴 かねこみつはる。詩人。暁星中学校卒業。早稲田大学高等予科文科などはすべて中退。大正8年(1919年)渡欧し、ベルギーで詩作。大正10年(1921年)1月(満25歳)に欧州から日本に帰国。「こがね虫」を刊行。生年は1895年(明治28年)12月25日。没年は1975年(昭和50年)6月30日。79歳。
川合玉堂 かわいぎょくどう。明治期から昭和期にかけて活躍した日本画家。日本の自然を詩情豊かに描く画風。1915年(大正4年)からは東京美術学校日本画科教。住居は若宮町29番地。生年は1873年(明治6年)11月24日。没年は1957年(昭和32年)6月30日。
川上音二郎 かわかみおとじろう。青年時代に自由党員。落語家桂文之助に入門し、時局諷刺のオッペケペ節で人気に。27年貞奴さだやっこと結婚。欧米を巡業した後「オセロ」などの翻訳劇を上演。新派劇の基礎をつくった。41年、帝国女優養成所を開設。生年は文久4年1月1日、没年は明治44年11月11日。48歳。
川上眉山 かわかみびざん。小説家。明治17年、東大予備門に入学。同19年、硯友社の同人に。同年12月、処女作「雪の玉水」や「青嵐」を出し、退学、作家に。明治28年、観念小説『書記官』『うらおもて』は評判になり、随一の美文家とも。文学的ゆきづまりや経済的困難のためか、明治41年6月15日、牛込天神町67の自宅で、剃刀で左の頚動脈を切り、自殺。久留米絣に白の帯を締め、殆ど坐ったままの姿で横に。生年は1869(明治2)年3月5日、 没年は1908(明治41)年6月15日。40歳。
川崎長太郎 かわさき ちょうたろう。小説家。アナーキスト系、ダダイスト系の詩人として出発。関東大震災後、小説「無題」(1925年)を発表。戦後は「抹香町」などの私小説を発表。生年は明治34年11月26日。没年は昭和60年11月6日で、83歳
川崎備寛 かわさき よしひろ。小説家、翻訳家。生年は明治24(1891)年3月13日。没年は昭和38(1963)年3月26日。関西大学経済科中退会社員や女学校、中学校の教師を経て、大正14年創刊の「不同調」同人。新人生派を標傍。同時に麻雀を始め、1929年日本麻雀連盟創立に際し中央委員。
川村克己 かわむらかつみ。フランス文学。昭和9年、津久戸小学校を卒業。東京大学仏文科に学び、助手を経て、立教大学に奉職し、同大教授。退職後は新潟産業大学副学長。生年は大正11年3月13日、没年は平成19年6月14日。85歳。
川村花菱 かわむらかりょう。早稲田大学英文科卒業。東京俳優養成所の教師を経て、芸術座の脚本部員兼興行主事として活躍。のちに新派の脚本、演出を担当し、若い俳優を育成。舞台構成と観客心理、写実的な台詞を重視し、作品は約320編。生年は明治17年2月21日、没年は昭和29年9月1日。70歳。
川村湊 かわむら みなと。日本の文芸評論家。1974年法政大学法学部政治学科を卒業。「異様なるものをめぐって─徒然草論」が群像新人文学賞の優秀作。法政大学国際文化学部教授。生年は昭和26年2月23日。
川端康成 かわばた やすなり。小説家。新感覚派の作家兼理論家。東大国文科に在学中に第六次「新思潮」に参加。卒業後、横光利一らと「文芸時代」を創刊。大正15年「伊豆の踊子」を発表。昭和43年、ノーベル文学賞受賞。生年は明治32年6月14日、没年は昭和47年4月16日。自殺。72歳。
神吉拓郎 かんき たくろう。小説家。生年は昭和3年9月11日。没年は平成6年6月28日。昭和24年NHKにはいり、ラジオ番組「日曜娯楽版」などの放送台本を手がける。昭和59年、都会生活の哀歓を軽妙な文体で描いた「私生活」で直木賞。作品に「ブラックバス」、エッセイに「たべもの芳名録」など。
蒲原有明 かんばら ありあけ。詩人。東京生れ。生年は1875年(明治8年)3月15日。没年は1952年(昭和27年)2月3日。東京府立尋常中学校(現日比谷高等学校)卒業後、神田にしき町の国民英学会で英文学を。複雑な語彙やリズムを駆使した象徴派詩人で、薄田泣菫と併称し、北原白秋、三木露風たちに影響を与えました。

菊池寛 きくちかん。小説家、劇作家。 生年は明治21年12月26日。没年は昭和23年3月6日。京大英文科卒。第3・第4次「新思潮」同人。大正7年「忠直ただなおきょう行状記」、「父帰る」等を発表するが認められず『時事新報』の記者に。9年「真珠夫人」をかき、通俗小説に。12年雑誌「文芸春秋」を創刊し、のち芥川賞、直木賞、菊池寛賞を創設
北原白秋 きたはら はくしゅう。詩人、童謡作家、歌人。生年は1885年(明治18年)1月25日。没年は1942年(昭和17年)11月2日。早大中退。「パンの会」を結成し、耽美たんび主義運動を展開。異国情緒・官能性豊かな象徴的作法で「邪宗門」「思ひ出」「桐の花」を発表。童謡・民謡にも名作を。
木下杢太郎 きのした もくたろう。詩人、劇作家。後に東京大学医学部皮膚科教授。本名は太田正雄。生年は1885年(明治18年)8月1日。没年は1945年(昭和20年)10月15日。
木村荘八 きむらしょうはち。生家は牛鍋屋いろは。白馬会葵橋洋画研究所に学び、岸田劉生と交友。「薄命のロートレック」を翻訳。大正12年に春陽会会員、13年「お七櫓にのぼる」、昭和3年「パンの会」などを制作。同時に新聞小説の挿絵で名声を博し、特に永井荷風の「濹東綺譚」で頂点に。随筆では「明治挿絵変遷史」「東京の風俗」「東京繁昌記」「木村荘八全集」(全8巻 講談社)など。生年は明治26(1893)年8月21日、没年は昭和33(1958)年11月18日。65歳。

邦枝完二 くにえだかんじ。小説家。慶応義塾予科に入学、永井荷風に師事し、『三田文学』の編集に従事。1917年(大正6)、時事新報入社。文芸部長に就任、帝劇文芸部に移り、脚本を執筆。23年以後、作家専業。江戸情緒豊かに官能美を描出。生年は明治25年12月28日。没年は昭和31年8月2日。63歳。
久保田万太郎 くぼたまんたろう。浅草生まれの俳人、小説家、劇作家。伝統的な江戸言葉を駆使して滅びゆく下町の人情を描写。関東大震災後、一時的に南榎町に。生年は1889年(明治22年)11月7日。没年は1963年(昭和38年)5月6日。73歳。
久米正雄 くめ まさお。小説家・劇作家。第三、四次「新思潮」同人。のち感傷的作風の通俗小説に転じ流行作家となりました。生年は1891年(明治24年)11月23日。没年は1952年(昭和27年)3月1日。
国木田独歩 くにきだ どっぽ。小説家・詩人。浪漫的な人生観・自然観を「武蔵野」「運命」に結晶、晩年は自然主義的な人生批評に。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」などの浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆に
黒柳徹子 くろやなぎ てつこ。タレント。生年は昭和8年8月9日。東洋音楽学校(現・東京音大)卒。東京放送劇団にはいり、昭和29年ラジオ「ヤン坊ニン坊トン坊」でデビュー。テレビの「徹子の部屋」「ザ・ベストテン」の司会などで活躍。昭和56年の「窓ぎわのトットちゃん」はベストセラー。

硯友社 けんゆうしゃ。文学結社。 明治18年(1885年)2月、大学予備門 (のちの第一高等学校)の学生尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、高等商業学校の丸岡九華の4人で創立。同人に巌谷いわや小波さざなみ、広津柳浪、川上眉山らが参加。同年5月機関誌『我楽多文庫』を発行し、小説、漢詩、戯文、狂歌、川柳、都々逸どどいつなどさまざまな作品を載せ、結果、明治20~30年代の文壇の中心勢力になりました。

幸田露伴 こうだ ろはん。小説家、随筆家。理想派の作家として文名を確立、尾崎紅葉と人気を二分した。考証・史伝・随筆に新境地を開拓。代表作に『五重塔』『一口剣』等。生年は慶応3年7月23日。没年は昭和22年7月30日。81歳。
幸徳秋水 こうとく しゅうすい。社会主義者。青年期に自由民権運動に触れ、中江兆民の門下。「万朝報」記者時代に社会主義研究会に入会、社会民主党を結成。日露戦争に反対し、堺利彦と平民社を興し「平民新聞」を刊行。渡米。帰国後アナーキズムを主張。大逆事件で検挙、主犯として死刑に。生年は明治4年9月23日。没年は明治44年1月24日。41歳。
小杉天外 こすぎてんがい。小説家。政治家を志し英吉利 (イギリス) 法律学校、現中央大学に入学。1年余で中退。斎藤緑雨の門に入り、ゾラの自然主義の影響で写実主義小説の代表的作家に。「魔風恋風」などの通俗小説で人気に。
児玉花外 こだまかがい。詩人。東京専門学校中退。『早稲田文学』などに詩を発表。明治36年(1903)「社会主義詩集」を発表したが、詩集でははじめて発売禁止。明大校歌の作詞者。生年は明治7年7月7日、没年は昭和18年9月20日。69歳。
後藤宙外 ごとうちゅうがい。小説家,評論家。 1894年東京専門学校卒業。1900年から『新小説』を編集。尾崎紅葉ら硯友社系作家の全盛に寄与し、反自然主義の評論を発表。晩年は故郷に帰り、秋田県六郷町に住み、町議会議員、町長を努め、郷土史、考古学の研究に熱中。生年は慶応2(1866)年12月23日、没年は昭和13年6月12日。73歳
小林清親 こばやしきよちか。版画家。最後の浮世絵師。ワーグマンに西洋画を学び写真術を修め、光と影の表現を取り入れた木版風景画を制作。晩年は時事的な漫画や歴史画に移行。生年は弘化4年8月1日(1847年9日10日)、没年は大正4年11月28日。69歳。
小宮豊隆 こみや とよたか。ドイツ文学者。文芸評論家。在学中夏目漱石の門下生として、高浜虚子、寺田寅彦、森田草平らと木旺会に出席。漱石主宰の東京朝日新聞文芸欄の仕事をする機会を得て、安部次郎、安倍能成らと親交に。ドイツ留学後、東北大学教授。『漱石全集』の編集。戦後東京音楽学校々長、学習院大教授。生年は明治17年3月7日。没年は昭和41年5月3日。83才。
今 東光 こん とうこう。小説家。小説家今日出海の兄。横光利一、川端康成らと「新思潮」「文芸時代」を創刊。新感覚派作家。白銀町に文党社を興し同人誌「文党」を創刊。昭和5年、仏門に入り天台宗の僧に。昭和31年『お吟さま』で直木賞を受賞。生年は明治31年3月26日。没年は昭和52年9月19日、79歳。大正13年、白銀町27番地に住む。
今 日出海 こん ひでみ。小説家、評論家。東光の弟。文部省に入省。フランス文学を専攻し、昭和8年、明大教授。25年「天皇の帽子」で直木賞受賞。昭和43年(1968)文化庁初代長官。「三木清における人間の研究」など辛口の人物論で有名。生年は明治36年11月6日。没年は昭和59年7月30日で、80歳。
今 和次郎 こん わじろう。社会学者、建築学者。1912年、東京美術学校卒業。早稲田大学理工学部建築学科助手。1920年、教授。59年の定年まで建築美学や装飾原理を教える。都市の生活風俗を採集し、記録しようとして舞台装置家の吉田謙吉らとともに考現学を創始。生年は1888年7月10日。没年は1973年10月27日。