神楽坂の「清風亭」という場所があります。何をおこなっていたのでしょう。
インターネットの「西村和夫の神楽坂」では……
赤城神社の境内の突き当たりにかって清風亭という貸し座敷があった。ここは
坪内逍遥を中心に早稲田の学生らが脚本の朗読や舞台稽古に使った所で、後の「文芸協会」の基礎を作ったところである。その後清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に変わり、
広津和郎など同時代(大正6年頃)の多くの早稲田の文士が住んでいた。広津和郎などはわざわざ神楽坂の銭湯まで来たという話が残っている。
『正宗白鳥全集』第16巻「流浪の人」(福武書店、昭和61年)では……
赤城神社境内の清風亭は、早稲田の学生や卒業生の茶話会などの会場になっていた。いろんな名義の下に、五銭か十銭の会費で、お茶と煎餅のがよく催されていた。
薇陽などの一団の俗曲研究会と称するもので、この貸席を本拠とすることにして、頻繁に会合した。坪内先生の意図はどうであれ、要するにそれを口実の遊びの会だったので、時には、芝居の弁当のような弁当をつくらせて食べたり、散会後に神楽坂の色町をぶらついたりした。詞句の研究だけでは物足りないので、芸者を
累わしてその実演を
翫賞しようとしたこともあった。脚本の朗読だけでは飽き足りないので、自ら立って、その役に模することにして、振付師を招き形をつけて貰うこともあった。私は最年少者であった。青春の真ん中という年頃であったが、身体
羸弱で、
怏怏として楽まずといった有様であった。
薇陽 水口薇陽。みずくちびよう。明治24年、坪内逍遙の朗読研究会で指導を受け、38年、易風会を、39年、逍遙を顧問として前期文芸協会を組織。のちに無名会、新派等で俳優。大正12年、独力で日本映画俳優学校を創立、約10年間その経営に専心、映画俳優の育成にあたった。後年、大連放送局顧問。
翫賞 がんしょう。風景、芸術作品など、美しいものを味わい楽しむこと。鑑賞。
羸弱 るいじゃく。体が著しく弱いこと。
怏怏 おうおう。満足できず不平な様子
また加能作次郎氏の『早稲田神楽坂』では「赤城神社の清風亭」ではなく「江戸川の清風亭」について書かれています。別ですが、まあ参考までに。
江戸川の清風亭といえば、吾々早稲田大学に関係ある者にとっては、一つの古蹟だったといってもいい位だ。早稲田の学生や教授などの色々の会合は、多くそこで開かれたものだが、殊に私などの心に大きな印象を残しているのは、大正2年の秋、
島村先生が遂に恩師
坪内先生の文芸協会から分離して、
松井須磨子と共に新たに芸術座を起した根拠地が、この江戸川の清風亭だったということである。
もう1つ、芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社)では「28、明治文学史上ゆかりの清風亭跡」としてこう書いてあります。
そこは、明治文学史上重要なところで、
坪内逍遥の芝居台本朗読会や実演の稽古、俗曲研究会か開かれたり、文学関係の会合が開かれたところである。
この清風亭は、石切橋に新築して移り、建物は、長生館という下宿屋になるが、そこに
片上伸や
近松秋江などが下宿していたことがある。
また「48、芸術座発祥の清風亭跡(文京区水道町27)」で島村抱月の芸術座の発祥地を紹介します。
渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」では……
「妹背山」という三大狂言にならぶ傑作の歌舞技に移行されたものを演じている。これがのちに文芸協会のいしずえを築いた由緒ある貸席であった。この清風亭が江戸川べりの石切橋へ移転する。そのあと「長生館」という下宿屋になり、作家たちが住むことになる。
「神楽坂まちの手帖」編集長の平松南氏が書いた『神楽坂の坂』では
もとは群馬県の赤城にあった社殿がまず早稲田に、それからここへ移されました。 戦災でこのあたりも焼け野原、今の社殿は戦後再建されたものですし、落雷で大きな穴のあいた大銀杏があったんですが、やはり戦火にやられました。 巨大なやけぼっくいになった大銀杏のずっとむこうに富士山が見えて、 それはきれいでした。戦前のことはよく知りませんが、今幼稚園があるあのあたりに清風亭という料亭があって、
坪内逍遥が新劇運動の場に利用したとか。のち下宿屋になって、
近松秋江や
片上伸が寄宿したそうです」
「この境内西の石段上の崖に面した空地」の場所と、「境内のいちばん奥にあたる北隅にある崖」の場所と、「幼稚園があるあのあたり」の場所はちょっと(本当はかなり)違うような気がします。「この境内西の石段上の崖に面した空地」は現在も空き地が残り、一部に建物が建っています。
さらに、もうひとつ、新宿区が作った『新宿文化絵図―重ね地図付き新宿まち歩きガイド』ではまったく違う場所(丸い赤円)が清風亭になっています。この「江戸・明治・現代重ね地図」では「『内務省地理局東京実測全図』『東京郵便地図』『東京明覧』等の資料を基に、明治40年(1907)前後の明治地図を復元」して作ったものになっています。これではこの場所は昔の番号で赤城元町35になり、坂の中腹です。赤城神社本体は赤城元町16でないといけません。石切橋に移転する前にここにいたことがあるのでしょう。
清風亭
でも、よく見てみると、この形で
のそばの建物(赤の矢印)だけが清風亭だと思います。その左隣
は記念碑を表し、ここでは昭忠碑なのでしょう。昭忠碑とは日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫したもので、平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去しました。したがって、「この境内西の石段上の崖に面した空地」の建物や、「境内のいちばん奥にあたる北隅にある崖」近くの建物はここしかありません。
TV「気まぐれ本格派」29 神社の恋の物語
さらに 野田宇太郎氏は「アルバム 東京文学散歩」(創元社、1954年)を書き、そこに清風亭の跡(写真)をだしてました。キャプションでは「赤城神社の丘より早稲田方面の展望。手前の空地が近松秋江などが下宿してゐた長生館の跡」となっています。やはり上の赤の矢印の建物が清風亭でした。
戦争直後の野田宇太郎氏の「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)
もうひとつ、赤城幼稚園ってどこなの? 赤城幼稚園は平成20年(2008年)まで残っていました。赤城神社の老朽化が進み、建て替えが必要で、その際、赤城幼稚園も閉園したのです。左図は2000年ころの図です。赤城幼稚園はきちんとありました。右は現在(2014年)です。なんと大きなマンションになっています。
赤城幼稚園
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