
昭和5年(1930)、大宅壮一氏が書いた『モダン層とモダン相』(大鳳閣書房)の1章「神楽坂通り」です。この「神楽坂通り」、もともとは新潮社の昭和3年(1928)「文章倶楽部」に出したものでした。
氏はジャーナリスト、ノンフィクション作家、毒舌の社会評論家です。生年は明治33年(1900)9月13日。没年は昭和45年(1970)11月22日、70歳でした。
神楽坂通り
神楽坂の通りを歩く度毎に、僕の頭にはいつも一つの思い出が生々と甦って来るのである。
それは震災の年の暮に近い頃のことである。(中略)
汽車が甲府を過ぎて信州に入つた頃、僕はふと通路をへだてた隣席でしきりに得意そうに話している東京人らしい老人の話に耳を傾けた。
その話によると、彼は大変な猟好きで、千円以上もする犬を何匹も飼っているのであるが、その中でも一番大切だのを震災でなくしてしまった。その犬は純日本種で、狸の穴をどんな遠方からでも嗅ぎつける不思議な能力を持っているのであるが、そういう犬は日本中を探しても数える程しかいない。幸い信州の山奥の何村の某が、その種の犬を一匹飼っていることを耳にしたので手離すかどうか分らないが、何千円出してでも是非手に入れるつもりで、わざわざ東京から出かけるところだというのである。
それから老人は、その犬の飼育費が東京だと月に百円位はかかるといったそうな景気のいい話をして、感心して聞いている粗朴そうな土地の人々を煙に卷いていた。
彼は渋い凝った着物を着て、ロシヤ人の冠るような毛皮の頭巾を冠り、態度からいっても、ものの言いっぷりからいっても、いかにも豪家の御隠居然としていた。ただ一つ、僕にとって疑問だったのは、そういう御隠居様がどうして三等に乗って長旅をするのだろうという一点であった。
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その後数日を経て、空っ風の吹くある寒い晩、僕は懐手をして神楽坂の通りを歩いていた。支那ソバかヤキトリでも食いたいと思って、12、3銭入っている財布を握りながら、周囲を見廻したけれど、場末と違って、この上品な古めかしい通りには、僕の求めている屋台店は見当らなかった。
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その時僕は、自分の眼の前に全く思いがけない人間が蹲っていることを発見した。
毘沙門様の石垣の前で、小さな楊子店を出して、頭から毛布をすっぽり冠り、寒そうに火鉢を抱いているのは、数日前中央線の汽車の中で豪奢な猟犬の話をしていたその老人であった!
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意味がわからない語句がまずありません。
千円 5円が2-3万円でしたので、千円は数百万円になります。
渋い 落ち着いた趣、地味で深い味わい
懐手 ふところで。和服を着たとき、手を袖から出さずに懐に入れていること
蹲む しゃがむ。ひざを折り曲げて腰を落とす。かがむ。
楊子 歯を掃除する用具。現在では歯間用の妻楊枝(爪楊枝)をさす場合がほとんどですが、本来は歯ブラシまでも含んでいました。
お金を持っている屋台の主人。現実に屋台からビルになることもあったので、決して嘘ではないと思います。
神楽坂は全く震災で生き残った老人のような感じである。銀座のジャッズ的近代性もなければ新宿の粗野な新興性もない。空気がすっかり淀んでいて、右にも左にも動きがとれないようである。
震災は「東京」の容貌を一変させ、それに伴ってその心理にも大変革を齎らした。「下町」といつても、震災後の下町は、久保田万太郎描くところのそれと大変な違いである。又同じ「山の手」といっても、震災後に新宿を中心として形成された山の手は、昔のそれとは全く別なものである。ところが、神楽坂だけは、依然として昔ながらの「山の手」である。
神楽坂の通りを歩いていて一番眼につくのは、あの芸者達がお詣りする毘沙門様と、その前にあるモスリン屋の「警世文」である。この店の主人は多分日蓮凝りらしく、本多合掌居士を真似たそうな文章で「恩想困難」や「市会の醜事実」を長々と論じたり、「一切の大事の中で国の亡ぶるが大事の中の大事なり」といったような文句を書き立てた幟りを店頭に掲げたりしているのを道行く人が立停って熱心に読んでいるのは外では一寸見られない光景である。これがもし銀座か新宿だとすると、時代錯誤であるのみならず、又場所錯誤でもあるが、神楽坂だとそういう感じを抱かせないばかりか、その辺りの空気とぴったり調和しているようにさえ見えるのである。
更に、市電を横切って新潮社の方へ坂を登って行くと、右手に、角帯をしめた数人の徒弟が店頭に坐って一足宛丁寧に縫っている平縫いの足袋屋がある。「足にぴったりとあう足袋」というモツトーが店頭に掲げられているが、それを見ると、時代の流れに抗する最後のものといったような感じを受ける。資本主義の大洋の中で、一つぽつねんと取り残されている封建時代の島とでもいったようなものである。
神楽坂といえば、東京でも有名な盛り場だが、恐ろしく活気がない。町がどことなく湿っぽくて黴臭い。
あの相当長い通りにカフェーらしいカフェーが一軒もない。以前はプランタンなどがあって、幾分近代性を漂わしていたけれど、それも経営困難だとかで、銀座の方へ移って行ってしまった。ここはカフェーよりも寧ろ、蕎麥屋とか、おでん屋とか、寿司屋とかが繁昌するところらしい。それも近頃の不景気で、あちこちに貸家の札が見えるのは寂しい。
銀座が断髪洋装のタイピストだとすれぱ、神楽坂は黒繻子の襟をつけて赤いてがらをかけたおでん屋の娘といった感じだ。
それから又、神楽坂の両側の裏はすっかり待合になっていて、そこから出て来る芸者という非近代的な存在が、この通りの空気を更に非近代的なものにしている。
朝――といつても10時か11時頃、省線の牛込駅の方から坂を登って来ると、黄色っぽい顔に下の方だけ濃い白粉の下塗りをしてお湯から帰って来る年増芸者や、どれもこれも皆同じような職業的類型性を帯びた顔の半玉達が三味線を提げてお稽古に行くのによくぶつかる。朝の芸者は、全く芝居の楽屋裏よりも殺風景である。
僕が神楽坂を通るのに一番好きな時刻は、夜12時すぎて夜店もなくなり、人通りも絶えて、紙屑が風に吹かれて、電燈だけがあかあかと輝いている通りに舞い上っている頃である。その頃は、それは神楽坂だけに限らないが、「都会の砂漠」を行くとでもいったような感じである。(昭和3年〔1928〕「文章倶楽部」)
モスリン屋 今和次郎編纂の『新版大東京案内』では
日蓮宗の辻説法でその店歌われるカグラ屋メリンス店
といっています。肴町(現、神楽坂5丁目)のカグラ屋は神楽屋ともいい、「モスリン(メリンス)」はメリノ種の羊毛で織った細くて柔らかい毛織物(唐縮緬)です。メリノ種とは18世紀末のスペイン産で、14〜18世紀、スペイン王室はこの輸出を禁止していました。「カグラ屋メリンス店」は現在の「Paul神楽坂店」です。

本多合掌居士『日本史人物 迷言・毒舌集成』では……
本田仙太郎、宮崎県の出身で、通称か号か不明も「合掌居士」と称されている。別に「日向鉄城」の筆名で著作もあるらしい。いずれにせよ、意図不明の全面広告を出すくらいだから田舎大尽なのであろう
日蓮 日蓮は道ばたに立って通行人を相手に説法することを辻説法と呼びました。
角帯 二つ折りの、かたくて幅のせまい男帯
平縫い 糸と糸との間隔をあけずに縫い埋める刺し方

足袋屋 これは美濃屋のことでしょう。戦前の美濃屋は神楽坂6丁目にあって、戦後に5丁目までに移ってきました。
ぽつねん ひとりだけで何もせず寂しそうにしている
プランタン カフェー・プランタン。明治44年(1911)、銀座に開業した「日本初のカフェ」で、文学者や芸術家らの集まる店でした。関東大震災後に神楽坂の岩戸町24番地に支店を出しましたが、2年後にここは閉店。戦争中に本店も閉店。
繻子 しゅす。布面がなめらかで、つやがあり、縦糸か横糸を浮かした織物。上の「繻子織り」を参照。

襟 衣服の首回りの部分
てがら 手絡。丸髷などの根もとに掛ける、飾りのきれ。色模様に染めた縮緬などを使います。銀座は洋風、神楽坂は和風でしょうか。
待合 客と芸妓の遊興などのための席を貸して酒食を供する店
省線 鉄道省(運輸省)の管理の鉄道線。国電の旧称。
半玉 はんぎょく。芸者見習い中で、まだ一人前ではなく、玉代も半人分の芸者
以上、熱意のない神楽坂でした。活気があふれた銀座や新宿と違っています。重要なことは、この文章は昭和3年に書かれている点です。関東大震災から5年間経ち、昭和3年でもう「カビっぽい」と言われています。
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