サトウハチローの「僕の東京地図」(春陽堂文庫出版、昭和15年。再版はネット武蔵野、平成17年)の「追悼の牛込」です。
サトウハチロー氏は詩人で、佐藤紅緑の長男。童謡・歌謡曲などを数多く作詞。歌謡曲「リンゴの歌」、童謡「ちいさい秋みつけた」、詩集「おかあさん」など。生年は明治36年(1903)5月23日。没年は昭和48年11月13日。70歳。この本が出版したのは37歳頃でした。なお、本の通りの「スーべニード」ではなく、再版の「スーべニー・ド」の方がいいと思われ、ここも「スーべニー・ド」としています。
僕は牛込で生れた。薬王寺前だ。四つの時まで喜久井町にいた。それから小石川へと引越して行ったのだ。牛込にいた時は(こいつはあとで、おやじが話してくれたのだが)真山の小父さん(青果氏)に抱っこして、毎日町を歩いていたようである。
——火事はどこだい牛込だい、牛のなんとか丸やけだい——
という唄だけは、いまでもはっきりおぼえている(なんとかというところは文句を知らないのじゃない。只今、スーベニアを奏でている僕の心に、おかしなひびきを響かせたくないからである)
小石川茗荷谷にいた小学校の僕、早稲田中学一年の頃の僕。長じておふくろと小石川の台町に住んでいた頃の僕にとって、神楽坂は、何と言っても、忘れられない町である。矢来の交番のところから、牛込見付までの間を一日に何度往復したことか。お堀には、ボートなんか浮いていなかった。暗い建物の牛込駅があって、線路に添ってずっと桜が植わっていたようにおぼえている。身の丈を(ああ僕は4尺もなかったですぞ)かくす位草が、いっぱい生えていた。僕達小学生は、二銭の釣竿を持って、一銭のバケツをさげて、そっと牛込のわきから、その草むらの中へ、しのびこんだ。みみずをつけて、お堀へ投げこんだ。一時間に10匹や15匹あげるのはお茶の子サイサイであった。鮒だ、鮒は、ひきが強い。6寸もあるのにひっぱられると堀の中へ引きこまれるように感じた。時々、オマワリさんにみつかっては追いかけられた。つかまっても、二銭と一銭と合計三銭の損だ(おおその頃はいまのように、労力問題などはやかましくなかったので、僕は獲物及びそれを獲得する努力のことは考えてなかった)うまくみつからない日には意気揚々と、家へ帰った。殺生のきらいなおふくろに見つかると、おこられるので、裏の空地へ行って、焚火をしてやいて食った。泥くさかっただろうって? そんなことを考えているような子供なんかいなかった、こいつは小学校時代の話だ。
中学へ行くようになっては、何と言っても山本のわずかしか穴のあいてないドーナツに一番心をひかれた。十銭あると山本へ行った。山本は川崎第百の前だ。いまでもある。五銭のコーヒーをのみ五銭のドナーツをたべた。ドーナツは陽やけのしたサンチョパンザのようにこんがりとふくれていた、コカコラをはじめてのんだのもここだ、ジンジャエールをはじめて呑んで、あああつらえなければよかったと後悔したのもここだ。この間、未だあるかと思って、ドーナツを買いに這入ったら、店内の模様は昔と一寸変わったが、陽やけのしたサンチョバンザことドーナツ氏は昔と同じ顔だ、皿に乗って、僕の目の前にあらわれた、なつかしかった。
長じて、おふくろと住むようになってからは、彼ドナーツ氏とは、別れを告げてしまった。そうして、ヤマニバーにもっぱら通うようになった。ヤマニバーはごぞんじもあろう、文明館の先の右側だ。ヤマニバーの前にいま第一銀行がある。売家と札の出た家が一軒ある。この二軒の間をはいると右側に市営の食堂がある。ここにも随分ごやっかいになった。金のない日は階下で大盛りに盛ったうどんをたべ、金のある日には、二階で、定食をたべたのだ。定食と言つても十五銭だ。ここの食物は、市営食堂の中でも一番量が多くてうまいんじゃないかしら?…これを通りすぎると飯塚質店の看板が出ている。飯塚友一郎さんのお家だ。質屋の看板の先に官許にごり酒と書いた看板がある、これも飯塚一家だ。
——けがれし涙を、にごり酒に落す男ここにあり——
新宿へ遊びに行ったかえりに、これを呑んでこんな唄をつくった。ああスーベニアはまだつづく。

牛込 昭和22年の区制改革前は、東京市は35区に分割。そのひとつが牛込区。
薬王寺前町 やくおうじまえまち。「市ヶ谷薬王寺前町」は、明治末に名前だけを変え、現在は「市谷薬王寺町」です。ほぼ中央を外苑東通りが南北に縦貫し、北部は市谷柳町に、南部は市谷仲之町と市谷本村町に接する。

喜久井町 きくいちょう。北部は早稲田町・馬場下町に接する。町域内を夏目坂通りが通る。
小石川 こいしかわ。戦前では東京市小石川区。現在の文京区のほぼ西半分。
なんとか 「きんたま」です
スーベニア souvenir 英語「土産」「記念品」、仏語の「土産」「思い出」「記憶」など。追悼の英訳ではmemorial, eulogy, remembranceなど
小石川茗荷谷 当時は「東京府東京市小石川区茗荷谷町」。小石川台地と小日向台地の間の浅い谷を茗荷谷町。茗荷は明るい日陰(半日陰)と適度な湿気があれば栽培しやすい。
小学校 住む地域の茗荷谷町から「東京市小日向台町尋常小学校」に通っていました。
台町 小日向台町。現在の文京区小日向二〜三丁目

矢来の交番 「牛込天神町」交差点に設置。現在は「矢来町地域安全センター」

牛込見付 当時「牛込見附」は市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所を指していました。つまり「神楽坂下交差点」を指す言葉だったのです。
牛込駅 現在の飯田橋駅と似ています。
4尺 1尺は10/33mなので、121.2cmでした。
6尺 181.8cmです。
中学へ サトウハチロー氏は明治43年(7歳)に小学校に入学し、大正5年(13歳)に早稲田中学に入り、大正6年(14歳)、父と一緒に浅草区に引っ越ししました。ちなみに関東大震災が起きたのは大正12年、20歳のときでした。
川崎第百 川崎第百銀行のこと。昭和2年(1927年)、経営不振に陥った川崎銀行が蔵相の斡旋で第百銀行と合併し「川崎第百銀行」になります。昭和11年(1936)、川崎貯蓄銀行と東京貯蔵銀行を吸収して、また第百銀行と改称し、昭和18年(1943)、戦争のため三菱銀行に吸収合併され、戦後、昭和23年(1948)GHQの指示で「千代田銀行」に一時改称し、昭和28年(1953)再び「三菱銀行」の名称に変え、平成8年(1996)東京銀行と合併し「東京三菱銀行」に改称。平成17年(2005)UFJ銀行と合併し「三菱東京UFJ銀行」に、平成30年(2018)現在の「三菱UFJ銀行」に改称しました。「山本は川崎第百の前」を現在に置き換えると「魚さんは三菱UFJ銀行の前」になります。
いま この文章は昭和11年に書かれています。昭和12年に「火災保険特殊地図」に書いてあった「コーヒー」もこの「山本コーヒー」だったのでしょう。
サンチョパンザ 正しくはサンチョ・パンサ。スペインのセルバンテス(1547-1616)の小説「ドン・キホーテ」に登場する現実主義の従者。
コカコラ コカ・コーラ。ノンアル炭酸飲料で、1886年米国ジョージア州アトランタで生産を開始。第2次世界大戦中、米軍とともに世界中に拡大。日本では大正時代から出回っていました。
ジンジャエール ノンアル炭酸飲料で、ショウガ(ジンジャー)などの香りと味をつけ、カラメルで着色したもの。
あつらう あつらえるの文語形。注文して作らせること。
第一銀行 現在の「神楽坂KIMURAYA」。
官許にごり酒 「官許」は「かんきょ。政府が特定の人や団体に特定の行為を許すこと」「にごり酒」は「にごりざけ。発酵させただけで糟かすを漉こしていない白くにごった酒。どぶろく」
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