平田禿木氏の『禿木随筆』(改造社、昭和14年、1939)です。氏は英文学者兼随筆家で、東京高等師範学校を卒業、一高在学中の20歳(1893年)『文学界』の創刊に参加し、21歳の『薄命記』、24歳の『神曲余韻』では哀韻悲調の名文で上田敏と並称されました。30歳で英国オックスフォード大学に留学し、帰ってから、女子学習院、第三高等学校の教授を歴任、のちに翻訳に専心しました。生年は明治6年2月10日。没年は昭和18年3月13日。享年は71歳。
この随筆を書いた年は昭和9年、61歳でした。
神楽坂
見附から見ると神楽坂は可成り急である。あの坂を見るたびに、自分はいつもローマの街を憶う。ローマにはああした坂がとても多いのである、そして、登りつめたとこに、きまってオベリスクの塔と噴水がある。自分がローマに遊んだのは桐の花散る初夏の候であったが、その見物にああした坂を幾つも登っていくのに実に骨の折れたことを憶い出す。ローマ七丘の上に立つというが、東京も高台が多いので、山の手となると坂道が多いのである。
友達が矢来の交番近くにいたので、自分はよく以前の神楽坂を知っている。神楽坂は震災後ずっと繁華になったらしい。菓子屋に寿徳庵、船橋屋の名が見えるが、これ等は何れも河向う江東の老鋪で、あの折一時此処へ移って来て、そのまま根城を据えたものであろうか。両側に大抵の店が揃っていて、何でも手近で間に合うようである。自分は往日日本橋東仲通り辺へ、東京の住居をおいたろうと思ったことがあるが、今ではあの辺はとてもごたごたしてい、それに、震災後の復興で、自分などにはまるで西も東も分らぬようになっている。矢来までの途中は相当賑やかであるが、ちょっと横町へ入ると、神楽坂は可成り靜かであるらしい。山の手のその静かさと下町の調法さを兼ねているとこは、広い東京にも珍しいと思う。あすこの何処ぞの小さな煙草屋の店でも買って、二階で物を書いたり、仮名がきの書道の指南でもしたらと、今も時々思うことがある。
菓子屋には和洋のそれを売る紅谷がある。あの窓に見る瀟洒な籃や趣向を凝らした筺は、遺い物としても手軽で格好である。自分には何より嬉しい海産物の店も一二軒あるらしく、魚屋の店にも、季節には北陸の蟹が堆く積まれている。客があって、ちょっとお寿司を取っても、土地柄だけによい物をすすめられると、逓信省時代に中町に住んでいた五島駿吉君の話であつたが、神楽坂は実に調法な処である。
見附 現在「神楽坂下」交差点は昔は「牛込見附」交差点と呼びました。
オベリスクの塔 古代エジプトの太陽の神を象徴する石柱。その形をした記念碑。欧米の主要都市の中央広場などにも建設、その地域を象徴する記念碑になっている。

桐の花 4~5月で紫色の花をつけます。

ローマの七丘 ローマの市街中心部からテヴェレ川東に位置し、ローマの基礎をつくった七つの丘。
矢来の交番 牛込警察署「矢来町地域安全センター」という名称に変わりました。場所は牛込天神町交差点に接する矢来町27番地。
震災 大正12年9月1日11時58分に震度7相当の関東大震災が起こりました。
河向う 川向こう。隅田川の東側。
根城 活動の根拠とする土地・建物
調法 ちょうほう。重宝。便利で役に立つこと。
仮名がき 仮名で書くこと。一般には平仮名で書くこと。
籃 かご。丸くて深い、持ち運び用の竹製のカゴ
筺 かご。四角くて蓋がある、収納用の竹製のカゴ
遺い物 つかいもの。贈答品。贈り物。進物。
格好 ちょうどよい。適当。
逓信省 ていしんしょう。明治18年に設置。郵便・電信・電話・簡易生命保険などの行政事務と現業業務。昭和24年、郵政省と電気通信省に分割。
五島駿吉 郵便局長。鉱物学者。生年は明治15年(1881年)。
田原屋は銀座、日本橋辺の一流の店にも劣らぬ、優れた果物を売る家らしく、そこの二階での洋食はあの辺の呼び物と聞いているが、まだ試みたことはない。以前矢来の友達を訪ねると、いつもきまって坂の途中を左へ入った明進軒という家へ案内してくれた。雅楽寮のイタリア人か、商大のフランス人の肝煎りで店を出したとかで、そこのフランス風の料理は下町でも味えないものであった。近くにいたイギリスの貴族名門出のチャモレー師なども、始絡パトロナイズしていた。日本間の別室があって、坐ってゆっくり食事の出来るのも嬉しく、そこには、これも来つけの人達と見えて、尾崎氏や齊藤松洲画伯の色紙、短冊が懸っていた。
この頃旧幕の旗本水野十郎左衛門邸跡へ三楽荘といふ料亭ができて、泉石の美を誇るその庭を見せるということで、暮近くなったら一夕友達と年忘れでもしてみたい、それには何んとか、一応その樣子を探つて見ておこうと思って、見附内の某大学へ客分として手伝いに一週二三回出向いているその帰るさ、或る日の午後、今講じて来たエリザ朝の花形サー・フィリップ・シドニーのステラの歌の定本や、トッテル氏雑纂などの入った重い包みを下げ、新聞の広告で教わった通り、牛込館の横を入って行くと、待合や小料理屋がずらりと軒を並べてい、今日何かの寄り合いでもあるものか、見番の前には、近くの女將や主人、女中達が盛装して立ち列んでいる。突き当って訊いて見ると、坂を上って右へ行き、それからまた後へ戻るのだという。その通り進んで行くと、住宅地のやうなとこへ出て仕舞った。何だか狐につままれたような気がしているとこへ、小春日和に外套を着ていたので、汗ばんでさえも来るのである。三楽荘というのに日本料理、支那料理とのみあるのは、他の一つは場所柄だけに化生の者でも出て来るという謎か、水野邸とあるからには、幡隨院もどきに湯殿でやられでもしては堪らぬと、えっちらおっちらと、もと来た途を戻って、表通りへ出て仕舞った。
雅楽寮 ががくりょう。うたつかさ。律令制で宮廷音楽をつかさどった役所。明治維新後、宮内省式部職と楽部に改組し、1908年(明治41年)、現在の宮内庁に引継した。
肝煎り きもいり。肝入り。双方の間を取りもって心を砕き世話を焼くこと。
チャモレー 英国人宣教師ライオネル・チャモレー師(Lionel Berners Cholmondeley)。岩戸町25番地に住んでいました(下図)

パトロナイズ patronize。ひいきにする。後援する。
来つける きなれる。来慣れる。ふだんよく来て慣れている。通い慣れる。
尾崎 尾崎紅葉氏のこと。
斎藤松洲 さいとうしょうしゅう。日本画家。明治3年(1870)大阪生。鈴木松年の門に学び、特に俳画に長ずる。昭和9年(1934)存、歿年不詳。
旧幕 きゅうばく。昔の幕府の時代。江戸時代
水野十郎左衛門 みずのじゅうろうざえもん。江戸前期の旗本。旗本無頼の徒を旗本奴といい、その首領である。町奴と争いを重ねた末、町奴の頭の幡随院長兵衛を自邸で殺すが最初はお咎めはなかったが、幕府の取締強化によって1664年切腹。
三楽荘 三楽荘は一平荘の位置にあり、この創業は昭和5年頃だといいます。一平荘を間違えて三楽荘としたのはありえます。次の段落では「三楽莊は横寺町にあるらしい」と書いてありますが、新宿区横寺町交友会の今昔史編集委員会『よこてらまち今昔史』(2000年)によれば、昭和10年頃の地図では三楽荘という店舗は全くなかったといいます。

泉石 せんせき。泉水と庭石。庭園。
帰るさ かえるさ。「さ」は接尾語。帰る時。帰る途中。かえさ。
エリザ朝 「エリザベス朝」「イギリス・ルネサンス」と同じ。劇作家はウィリアム・シェイクスピアが有名で、現在に残る戯曲の多くを残した。
サー・フィリップ・シドニー Sir Philip Sidney。16世紀のエリザベス朝の英国の詩人、廷臣、軍人。
ステラの歌 原題『Astrophel and Stella』。英語で書かれた有名なソネット連作の最初のもの。
トッテル氏雑纂 リチャード・トッテル。Richard Tottel。当時のエリザベス朝詩のアンソロジー「歌とソネット」(1557)を編集、「トッテル詞華集」として知られるようになった。「雑纂」とは雑多な記録や文章を集めることや、編集した書物。
見番 三業組合の事務所。三業組合とは料亭・待合茶屋・芸者屋の3業種をまとめていいました。しかし、この当時、見番は芸者新路にできていました。牛込館は藁店にできていて、この2つの場所は違います。
小春日和 晩秋から初冬にかけての暖かな日和。小春とは、旧暦十月の異称。
他の一つ 日本料理、支那料理、西洋料理でしょうか。
化生の者 化けること。化け物。妖怪。
幡隨院 幡随院長兵衛。ばんずいいんちょうべえ。江戸時代初期の侠客。旗本奴の首領水野十郎左衛門と争い水野に謀殺された。
湯殿 歌舞伎の「極付幡随長兵衛」では、水野十郎左衛門は旗本奴と町奴を和解させるために酒宴を開くので、幡随院長兵衛に来てほしいという。長兵衛は受諾する。酒宴ではこぼれた酒が長兵衛の着物を濡らす。水野は着物が乾くまで自慢の湯殿(風呂)でくつろぐよう勧める。湯殿に案内された長兵衛の前に水野が現れ、槍を突き出す。長兵衛は丸腰で応戦するが、重傷を負う。水野はすべて覚悟の上で身の始末まで整えてやって来た長兵衛に感心し、殺すのは惜しいと思いながら、とどめを刺す。
三楽荘は横寺町にあるらしい。横寺町というと、今からはもう何十年か前の夏、大野洒竹と一緒に同じ町のその居に尾崎紅葉氏を訪ねたことを憶い出す。洒竹のいた谷中から二人乘の人力車で神楽坂下まで来、それからぼつぼつ歩き出したが、盛夏のことでとても暑く、道を訊いてから、とある井戸端で水を汲んで汗を拭き、それから漸く探ね当てて案内を請うた。早速二階の書斉へ通されて尾崎氏も直ぐ出て来たが、薄茶色の縮みの浴衣にメリンスの兵古帯という服装で、いかにもさっぱりとしていたのは意外だった。部屋も硯友社の他の人達のそれのように、箪笥に長火鉢をおいて、人形を飾っているようなことはなく、茶道具だけは紫檀の棚に載っていて、たぎらした湯を階下から取り寄せ、主人自ら茶をいれるのであった。
その時、拭巾を取って、額へ八の字を寄せながら、ぐいぐいと盆を拭くその姿が、今もありありと目に殘っている。話はそれからそれと大分にはずんだが、小説のことになると、もう閉口だと、顔を曇らしてうつ向きになったことを今に覚えている。帰り際に、夫人もちょっと姿を見せられたが、いかにも静かな、貞淑の方のように見受けられた。玄関には、「青葡萄」が読売へ出てから程経ってのことだから、秋声氏や鏡花氏でなく、次の代の方々がいたのだと思う。尾崎氏の訃は外遊中オックスフォードでこれを聞き、洒竹氏には帰ってから一度、築地本願寺で一葉さんの法事の折に逢ったぎりで、氏も早く他界して仕舞った。
肴町の電車道を横切って矢来近くへ来ると、右側に洋風の骨董を売る小さな店や、万年青や蘭、新春には梅の小型の盆栽を窓へ飾っている家があり、交番近く来ると、左側に水盤や煎茶風の竹の花生けを売っている古い店があり、それ等を眺めながら、御苦労にも自分は矢来下の停留場まで来て、そこから電車へ乗って帰って来る。その電車がいつも空いていて感じが好く、車掌までがのんびりして、親切だからである。(昭和9年11月)
横寺町 新宿区の北東部に位置し、神楽坂6丁目に接する町。
大野洒竹 おおのしゃちく。俳人。東京帝国大学医学部を卒業。大野病院の泌尿器科の医師。俳書収集を進め、蔵書約4000冊は洒竹文庫として東大総合図書館に所蔵。生年は明治5年11月19日、没年は大正2年10月12日。享年は42歳。
谷中 東京都台東区の地名。下谷地域の北西に位置し、文京区(千駄木・根津)や荒川区(西日暮里・東日暮里)との区境にあたる。
案内 ここでは「人の来訪や用向きを伝える」こと。取り次ぎ。縮み
ちぢみ 縮織り。ちぢみおり。撚よりの強い横糸を用い、織り上げ、温湯でもんでちぢませ、布面全体にしぼを表した織物。
メリンス メリノ種の羊毛で織って、薄く柔らかい毛織物。
兵古帯 兵児帯。へこおび。和服用帯の一種。並幅または広幅の布で胴を二回りし、後ろで結んで締める簡単な帯。
硯友社 けんゆうしゃ。文学結社。 明治18年(1885年)2月、大学予備門 (のちの第一高等学校)の学生尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、高等商業学校の丸岡九華の4人で創立。同年5月機関誌『我楽多文庫』を発行し、たちまち明治文壇の一大結社に。
たぎらす 滾らす。沸騰させる。煮え立たせる。たぎらかす。
貞淑 ていしゅく。女性の操がかたく、しとやかなこと。
築地本願寺 東京築地にある浄土真宗本願寺派の別院の通称。
一葉 おそらく樋口一葉です。築地本願寺別院で埋葬。『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』などを発表。生年は明治5年3月25日、没年は明治29年11月23日。享年は肺結核で24歳
電車道 以前は大久保通りに都電が走っていました。
万年青 おもと。常緑の多年生草本。学名はRohdea japonica Roth。

矢来下の停留場 市電(都電)の 停留場は江戸川橋通りにありました。

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