
春月はそば屋さんでした。明治より古くから営業し、終戦後も、しばらくは営業して、たとえば、昭和27年、都市製図社の火災保険特殊地図ではやっていますが、昭和30年代には隣の三菱銀行の駐車場になり、昭和35年には合併しています。場所は三菱UFJ銀行の一部です。
地元の話では「3丁目の三菱銀行は、戦後しばらくして隣地を買い取りました。石造りの旧店舗は、周辺への通知と道路の通行止めをした上で爆破して取り壊しました。ちょっとしたイベントでした。現店舗は駐車場を地下にして建て直したものです」

「古老の記憶による関東大震災前の形」昭和45年から)。現在は三菱UFJ銀行の一部


歌舞伎役者の三代目中村仲蔵氏が書いた『手前味噌』(昭和19年)で、弘化4(1847)年9月には……
提灯の用意すれど蝋燭を買う家なく、四辺は屋敷町ゆえ、探らぬばかりにして、牛込山伏町より神楽坂の通りへ出る。ヤレ嬉しやと春月庵という蕎麦屋へ這入り、蕎麦を喰う。夫より堀端へ出で、順路猿若町の自宅へ帰る時に、四ツ成し。お千賀、お紋も留守中の難渋さぞかしと、互ひに難儀話に時を移し、我れ土産は少しだがといって金十両出す。女ども涙を飜して大悦び、その夜は足を延ばして緩々旅の労れを休めけり。
安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では……
春月——毘沙門並びの角店。二階に座敷もある立派なそば屋ですが、時勢は喫茶を一諸にさせています。
東京日日新聞社会部編『味覚極楽』「医学博士 竹内薫兵氏の話 そばの味落つ」(光文社、昭和2年、現在の毎日新聞、聞き取りは社会部記者・子母沢寛氏)では……
牛込神楽坂の「春月」もいい。もり、ざるそば、何んでもいいが、あのうちの下地に特徴がある。この方の通人にいわせると、そばは下地をちょっぴりとつけて、するすると吸い込むものだというけれども、私は矢張り下地を適当につけて、囗八分目に入れて行くのがいいと思っている。
これを受けて子母沢寛自身も「寸刻の味」(甘辛社「あまカラ」昭和32年)を書いています。
神楽坂の「春月」は書生の頃から久しく通った。はじめ何んの気なしに入ったらうまい。通っている中に気がついたのだが、よく天ぷらだの何んだの、吸タネでお酒をのんでいる人が大変多い。大抵行く度にこういう人を見る。天ぷら、五目、鴨なんというようなものの下地だけをとって酒をのんでいる。後ちに酒のみの先輩にこれを話したら「酒というものは蕎麦でのむと大層うま味が減るものだ、だから蕎麦屋では大抵飛切り上等のものを置く、酒のみは酒をのむためにここへ入る。蕎麦をとっても酒をのみ終えてから御愛想に食う位のものだ。吸タネで酒をのむなどはところがら粋な奴が多いのだろうし、酒も余っ程いいのを出しているな」といった。
また、東京日日新聞社会部編『味覚極楽』の「四谷馬方蕎麦 彫刻家 高村光雲翁の話」(光文社、昭和2年)で高村氏は……
麻布永坂の「更科」、池の端の「蓮玉座」、団子坂の「薮そば」はその頃から有名で、神楽坂の「春月」は二八そば随一のうまさだなどといわれたものだ。
二八そばとは2✕8= 16銭で食べさせたそばのこと。あるいは、うどん粉とそば粉の割合を2対8でつくったそば。また、そば粉2、うどん粉8の割合でつくった下等なそば。この二八そばの語源はほかにもいろいろあります。
牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第4号の「語らい広場」では……
昆沙門様の隣、三菱銀行の角地に銀行ができるまで「春月」というそばやさんがありました。戦前からあったお店だったと思いますが、その頃のことはおぼえていません。昭和20年代、まだ麺類外食券なんてものが必要だった時代(そんなこともあったのです)に、随分よく通ったものです。きりっとした、いわゆる小股の切れ上がったというお内儀さんがいかにも江戸前という感じで、いつも和服で店内を切り廻していました。銀行の進出で消えてしまい残念な思いがしたことをおぼえています。はやった店だったのに。
本間 2024年6月17日 6:41 PM
神楽坂の春月
祖母の経営していたお店です。
このHPを見つけて母に見せた所 喜んでいました。
ありがとうございます。
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