神楽坂のカフェ・プランタンは一体どこにあったのでしょうか? 明進軒という洋食屋とカフェ・プランタンという喫茶店は同じ場所にあった。これは明々白々な事実で、明治時代から明進軒は岩戸町24番地にあったとわかっています。それでも、ある人はカフェ・プランタンは別の場所にあると考える、これは不思議でした。しかし、ようやく理由がわかりました。
2005年2月5日、朝日新聞「Be on Saturday」に「早いリーチは一・四索」という編集部・斎藤鑑三氏の記事が載りました。ここに理由があったのです。
麻雀荘の「発祥の地」を探す手がかりは(河原崎)国太郎が書き残したエッセーだった。<映画文明館の筋向かいを一寸入った、兼坊さんという弁護士さんの家>がカフェだったと記していた。文明館はスーパーになっていたが、期待した「兼坊さん」は旧土地台帳にその名がない。町の人たちの証言も二転三転した。
作家加能作次郎のルポ「早稲田神楽坂」(27年)にプランタンの閉店を惜しむ一節が見つかった。<かつてここは尾崎紅葉が使った「明進軒」という洋食屋だった>
紅葉の日記をたどる。なるほど、明進軒はひんぱんに登場するけれど、場所を特定する記述がない。ただ、紅葉はここからよく出前を取っている。とすれば、明進軒は紅葉邸の近くに違いない……。
正月公演のけいこ中の(松山)政路さんに、電話で経過を伝える。「まるで『砂の器』の刑事さんみたい」と政路さんはからかった。この映画(74年)に出演した彼に、撮影の裏話を聞いたことがある。私がこの映画が好きなことを覚えていた。
行き着いた牛込の「薬師寺」
37(昭和12)年作製の地図を見つけた。迷路のような横町の寺の一角に、「茶房」と書かれた場所がある。紅葉邸から200㍍ほど、ここかもしれない……。
探し始めて2カ月、意地だった。なぜか、「定番」の連想をした。紅葉→金色夜叉→熱海。熱海の図書館で、紅葉の弟子、作家後藤宙外の「明治文壇回顧録」(36年)をたどった。そこに<牛込の薬師寺内の明進軒>とあった。寺の正式名は正蔵院だが、薬師如来をまつり、地元では薬師寺と呼ばれていた。境内の「茶房」がカフェ・プランタンの場所だった。(中略)
菊池寛らが作った麻雀連盟
神楽坂のプランタンは2年に過ぎなかったけれど、省三の牌で、鈴木の指導を受けた人たちが日本麻雀の基礎をつくる。29(昭和4)年結成の「日本麻雀連盟」の初代総裁は菊池寛、久米(正雄)(2、6代)、浜尾(四郎、子爵で推理小説家)(4代)と、みんなあの時の面々である。
年末の夕方、政路さんとプランタンの横町を歩いた。跡地は日本料理屋だった。玄関に季節外れのハギの花が咲き、おかみさんの打ち水に夕日が映えた。向かいのコーヒー店からひきたての豆の香りが、ジャズとともに流れてきた。
町の姿は変わっても、文士たちが足しげく通い、麻雀でにぎわったあの時代の面影は確かにあった。「何だか、ほっとしました」と政路さんが言った。
その言葉の意味が私には分かった。
国太郎 河原崎国太郎。かわらさき くにたろう。5世。歌舞伎俳優。本名松山太郎。父は洋画家松山省三。前進座の創立に参加し、1932年襲名。長く同座の立女方として活躍し、特に世話物や悪婆物にすぐれた舞台をみせた(Wikipedia)。
エッセー 河原崎国太郎氏の「女形芸談」(未来社、1972年)では……
こうしているうちに、プランタンが、神楽坂へ支店を出すことになりました。今の地図では神楽坂の一部になりましたが、矢来町とのすれすれのところに確か横寺町といったか、映画文明館の筋向いを一寸入ったところの兼房さんといった弁護士さんのお宅を借りて、日本式なライト建築を真似た割合いとスマートな店でした。私中学生ながら時々父のいないおりに、留守番として泊ったこともあったのです。私の眼に残っているのは、秋田雨雀先生が、乾杯される時、我々青年は、とおっしゃったのですが、おつむが白髪ながら可笑しくなかったことです。
後年私が前進座の一員と成ってから、友の会の会員になられた先生から、個人的にも御助言頂いたことどもは面白いまわり合わせというものなのです。神楽坂プランタンは、著名士が絶えず入り交わり、丁度明治44年開店の時の様相を呈してましたが、また一方大学生の客も多かったのです。ことに早慶戦の結果によって、慶応が勝てば、銀座のプランタン、早稲田が勝てば牛込のプランタン、いずれにしても、被害を受けたものでした。何しろ、先輩が多くの学生を連れて歩き、店のテーブルの上に土足で立上り、乾杯学生諸君というさわぎにて『思い出』のカールハインツを取りまくといったふんいきです。母など絶叫して、テーブルを降りて下さいといってました。
前進座 歌舞伎俳優の河原崎長十郎、中村翫右衛門、中村鶴蔵らにより,1931年結成された劇団。目的は歌舞伎界の因習を改革し、民主的な組織と経理の公開、生活と密着した演劇活動。
『思い出』のカールハインツ 1927年、米映画『思ひ出』。ドイツ連邦ザクセン公園の王子カール・ハインリッヒのハイデルベルクでの初恋を描く。
カフェ カフェ・プランタンのこと。
文明館 現在はスーパー「よしや」
加能作次郎のルポ「早稲田神楽坂」 加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』「早稲田神楽坂」(昭和2年)の「カッフエ其他」です。
震災後通寺町の小横町にプランタンの支店が出来たことは吾々にとって好個の快適な一隅を提供して呉れた様なものだったが、間もなく閉店したのは惜しいことだった。いつぞや新潮社があの跡を買取って吾々文壇の人達の倶楽部クラブとして文芸家協会に寄附するとの噂があったが、どうやらそれは沙汰止みとなったらしい。今は何とかいう婦人科の医者の看板が掛かっている。あすこはずっと以前明進軒という洋食屋だった。今ならカッフエというところで、近くの横寺町に住んでいた尾崎紅葉その外硯友社一派の人々や、早稲田の文科の人達がよく行ったものだそうだ。私が学校に通っていた時分にも、まだその看板が掛かっていた。今その当時の明進軒の息子(といってもすでに五十過ぎの親爺さんだが)は、岩戸町の電車通りに勇幸というお座敷天ぷら屋を出している。
明進軒 西洋料理店です。向かい側に求友亭という料亭がありました。
尾崎紅葉 小説家。本名は尾崎徳太郎。別号は十千万堂。山田美妙らと硯友社を興し「我楽多文庫」を発刊。門人は泉鏡花・徳田秋声など。著作は「三人妻」「多情多恨」「金色夜叉」など。
硯友社 けんゆうしゃ。明治18年(1885)、尾崎紅葉・山田美妙・石橋思案らが結成した文学結社。機関紙「我楽多文庫」を発行。巌谷小波・広津柳浪・川上眉山・泉鏡花・小栗風葉らが前後して加わり、明治20年代の文壇の主流に。
明進軒 東陽堂編『東京名所図会』第42編(1904、明治39年)では……
岩戸町24番地に在り、西洋料理、営業主野村定七。電話番町1,207。神楽坂の青陽楼と併び称せらる。以前区内の西洋料理店は、唯明進軒にのみ限られたりしかば、日本造二階家(其当時は肴町行元寺地内)の微々たりし頃より顧客の引立を得て後ち今の地に転ず、其地内にあるの日、文士屡次ここに会合し、当年の逸話また少からずという。

朝日新聞は明進軒の場所がわからないので、これからあちこち明進軒を探しだします。しかし、簡単な『東京名所図会』は探してはいないようです。
場所を特定する記述 場所を特定する文章は他に沢山あります。例えば、吹田順助氏の「昔がたり」(「緑野抄」白水社、昭和10年)から……
今の神楽坂通りのことを、僕らは寺町と呼んでいた。(中略)通寺町に勧工場があって、その寂しい横町に明進軒という西洋料理屋があった。西洋料理屋なぞも、その頃は東京でも数える位しかなかった。
明進軒には一二度連れられて行ったが、洋風の建築といい、料理の名前といい、食器の類までも、その頃の僕らには一種のエキゾーチィクな印象を与えたものだ。元の明進軒の跡には、八九年前にカフェー・プランタンの出店が一時出たことがある。
これは「寂しい横町」しかわかりません。但し、朝日坂は人が多い場所でした。
また別の地図(『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」の「神楽坂昔がたり」で岡崎弘氏と河合慶子氏が「遊び場だった「寺内」)でも同じような場所を示しています。

酒井真人氏の『カフェ通』(四六書院、昭和5年)では……
プランタンといえば、震災前後、牛込の肴町の電車線路を越した側の路次に、小さい構えであったが、神楽坂のプランタンが出来ていた。入口から何処となく風雅に出来ていて、万事が瀟洒に、路より低い地面を利用して、鳥渡ハイカラな山荘を忍ばせたが、いつも室内は倶楽部的な一種親しげな気分に満ちていた。
(中略)そこに後年の薄幸なキネマのスター松井千枝子が、松山省三氏を便って美しく寄宿していたことは、類を以て集ったそこの常連なら、誰れもがよく知っていることであろう。
「寂しい横町」に加えて「路より低い地面」なので、朝日坂とは全く違います。
葛生勘一氏の「月刊金融ジャーナル」(金融ジャーナル社)『新・東京散歩』の「神楽坂よ、もう一度」(1964年)では最も正確な文章です。
その先の毘沙門天をまつる善国寺のお隣りには、山の手の洋食の味を誇った田原屋があり、晩年の鷲尾雨工は、この店の酒と料理と雰囲気とを、こよなく愛していたようだ。同じ側に五十鈴といった甘い物屋と鮒忠という鳥料理屋があるが、これは、いずれも戦後派である。(中略)
都電通りを渡って、四、五軒目のパン屋の通りを左へ入ると、カフエ・プランタンがあった。大震災で下町を追われたダンディたちのメッカであったカフエ・プランタン。しかし私には、その薄暗い客席が、どうしても馴染なかった。
鷲尾雨工 わしおうこう。小説家。直木三十五とともに出版社を設立するが、失敗。その後、実証的な手法で描く歴史小説で高い評価を得る。
五十鈴 五十鈴。和菓子。昭和21年に創業。
鮒忠 鳥料理屋。2020年9月、閉店。2021月6月、駐車場。現在は「ディア・ライフ神楽坂ビルディング」であり、2024年2月に開店した「京おでんと肴鉄板の店 かぐら邸」です。
都電通り 大久保通りです。
パン屋 1960年「住宅地図」では「亀十パン店」。現在は「おかしのまちおか」
ダンディ 一分の隙もない身だしなみの男性、おしゃれな男性、伊達好みの男性。
この「都電通りを渡って、四、五軒目のパン屋の通りを左へ入ると」出てくる路地を「川喜田屋横丁」といいます。
政路 松山政路。俳優。本名は松山省次。幅広い演技力の持ち主で、三枚目的なコメディリリーフから狂気的な犯人役まで、多彩な役柄を演じている。父親は俳優の河原崎國太郎(5代目)。祖父は洋画家で、カフェー・プランタン経営者の松山省三(Wikipedia)。
37(昭和12)年作製の地図 都市整図社版の「火災保険特殊地図」(昭和12年)でしょう。
茶房 わかりませんでした。
後藤宙外 小説家、評論家。東京専門学校(現、早稲田大学)文科卒。「早稲田文学」の記者から「ありのすさび」、社会小説「腐肉団」を発表。「新小説」を編集、主宰し、反自然主義の立場に立った。
明治文壇回顧録 以下の文章が出てきます。

「牛込の薬師寺内」の所在地は、牛込に「薬師寺」がないので、不明です。ただし、神楽坂6丁目の正蔵院は「草刈薬師如来」とも呼ばれ、ここが「薬師寺」である可能性が確かにあります。しかし、東陽堂編『東京名所図会』第42編によると、以前の明進軒は「当時は肴町行元寺地内」と書かれているので、「行元寺」を「薬師寺」と間違えて書いたものなのでしょう。つまり「牛込の薬師寺内の明進軒と云った西洋小料理店」ではなく「牛込の行元寺内の明進軒と云った西洋小料理店」に変えるべきでした。明治40年以降は行元寺は品川区西五反田に移転しました。
日本料理屋 「荒井ビル」の1テナント。現在は「ろばたや次郎」。
これが困った話の原因でした。朝日新聞を元にした説明では、渡辺功一氏著の『神楽坂がまるごとわかる本』(142頁、展望社、2007年)の明進軒が出てきます。もちろん、誤解がいっぱい。
プランタンまえの明進軒
ところが歴史資料の中にある明治の古老による関東大震災まえの神楽坂地図を調べていくうちに「明進軒」と記載された場所を見つけることができた。明治36年に創業した神楽坂六丁目の木村屋、現スーパーキムラヤから横丁に入って、五、六軒先の左側にあったのだ。この朝日坂という通りを二百メートルほど先に行くと左手に尾崎紅葉邸跡がある。
明治の文豪尾崎紅葉がよく通った「明進軒」は、当時牛込区内で唯一の西洋料理店であった。ここの創業は肴町寺内で日本家屋造りの二階屋で西洋料理をはじめた。めずらしさもあって料理の評判も上々であった。ひいき客のあと押しもあって新店舗に移転した。赤いレンガ塀で囲われた洒落た洋館風建物で、その西洋料理は憧れの的であったという。この明進軒は、神楽坂のレストラン田原屋ができる前の神楽坂を代表する洋食店であった。現存するプランタンの資料から、この洋館風建物を改装してカフェープランタンを開業したのではないかと思われる。
神楽坂の……文献 これは浅見淵氏の「昭和文壇側面史」(昭和43年)でしょう。
横寺町……近いとはいいがたく いえいえ、これぐらいは近いと呼びます。
明治の古老による関東大震災まえの神楽坂地図 昭和45年、新宿区教育委員会の「古老の記憶による関東大震災前の形」です。
明進軒 明進軒はこの地図には出てきません。出てくるのは「求友亭」だけです。

結論としてはプランタンと明進軒は以前の岩戸町24番地(現在は岩戸町一番地)なのです。
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