寿徳庵じゅとくあん|神楽坂1丁目

 新宿区教育委員会が書いた『古老の記憶による関東大震災前の形』(神楽坂界隈の変遷、昭和45年)では下の左図で「菓子・寿徳庵じゅとくあん」。昭和12年の『火災保険特殊地図』(都市製図社)では下の右図で「壽徳庵」です。

 

「昭和初期の神楽坂」(「牛込区史」昭和5年)では左側の土蔵づくりの家でした。。

 安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では……

壽徳庵——坂の左側角点。菓子屋の二階が喫茶室になっています。簡素な中にも落付きがあって、女学生などにも這入はいりよい店です

 平田禿木とくぼく氏の『禿木随筆』(改造社、昭和14年、1939)の「神楽坂」では大正12年の大震災の前には寿徳庵はここには多分いなかったと言及します。氏は英文学者兼随筆家で、一高在学中の20歳(1893年)『文学界』の創刊に参加し、東京高等師範学校を卒業、30歳で英国オックスフォード大学に留学し、帰ってから、女子学習院、第三高等学校の教授を歴任、のちに翻訳に専心。生年は明治6年2月10日。没年は昭和18年3月13日。享年71。

 友達が矢来の交番近くにいたので、自分はよく以前の神楽坂を知っている。神楽坂は震災後ずっと繁華になったらしい。菓子屋に寿徳庵、船橋屋の名が見えるが、これ等は何れも河向う江東の老鋪で、あの折一時此処へ移つて来て、そのまま根城を据えたものであろうか。両側に大抵の店が揃っていて、何でも手近で間に合うようである。自分は往日むかし日本橋東仲通り迄へ、東京の住居をおいただろうと思ったことがあるが、今ではあの辺はとてもごたごたしてい、それに、震災後の復興で、自分などにはまるで西も東も分らぬようになっている。矢来までの途中は相当賑やかであるが、ちょっと横町へ入ると、神楽坂は可成り静かであるらしい。山の手のその静かさと下町の調法さを兼ねているとこは、広い東京にも珍しいと思う。あすこの何処ぞの小さな煙草屋の店でも買って、二階で物を書いたり、仮名がきの書道の指南でもしたらと、今も時々思うことがある。

船橋屋 船橋屋の創業は明治3年で、創業地は通寺町(現、神楽坂6丁目)67番地。和菓子と喫茶の店。小説家の広津和郎氏は子供の時からよく知っていたと『年月のあしおと』(初版は昭和38年の『群像』、講談社版は昭和44年発行)に書かれています。広津氏は明治24年12月5日生まれなので、明治後半では船橋屋がそこにちゃんとあったのです。残念ながら、寿徳庵では同様な証言はありません。
 しかし、寿徳庵も大震災の前にあったという文章が2つ残っています。残念ながら、どちらも完璧ではありません。一つは『古老の記憶による関東大震災前の形』です(上記)。2つ目は「牛込神楽坂(大正初期)の写真(下)です。左の「大福」は昭和5年「牛込区史 」(上の写真)とそっくりです。しかし、本当に「大正初期」に撮影したのか、わかりません。


河向う 川向こう。隅田川の東側。
根城 活動の根拠とする土地・建物
調法 ちょうほう。重宝。便利で役に立つこと。
仮名がき 仮名で書くこと。一般には平仮名で書くこと。

 現在は「スターバックス」です。

スターバックス

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