袖摺坂、蛇段々、南部坂(新蛇段々)

1.袖摺坂、蛇段々、南部坂(新蛇段々)

 袖摺坂そですりざかは現在は新宿区横寺町とたん町の間にあります。地下鉄の「牛込神楽坂駅」からは一番近いのですが、ほかの地下鉄からはかなり離れています。「牛込神楽坂駅」からはA2の出口を使います。なお、袖摺坂は乞食坂ともいいます。

袖摺坂
袖摺坂
袖摺坂
袖摺坂

 標柱の説明文は

袖摺坂(そですりざか)
俗に袖摺坂と呼ばれ、両脇が高台と垣根の狭い坂道で、すれ違う人がお互いの袖を摺り合わしたという(『御府内備考』)。

 右側は黒塀になっています。これは12年、地元のNPO法人「粋なまちづくり」が、袖摺坂に黒塀を設置したためです。

上から見た袖摺坂
袖摺坂。右は五味坂

 これから上側を右に曲がっていくと「五味坂」です。

弁天坂」は新宿歴史博物館『新修 新宿区町名誌』(平成22年)によれば、「南蔵院前脇から町内入り口への坂は南蔵院に弁財天が安置されていることから、弁天坂と呼ばれる。(町方書上)」

弁天坂

 新蛇段々(南部坂、S字型の坂)は反対側の坂です。

新蛇段々 (下から)
蛇段々(上から)
画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 6aa713ba6f043a53ca057e51edeb3837.jpg
袖摺坂、弁天坂、五味坂、新袖摺坂(南部坂、S字状の坂)

 さらに下図は神楽坂付近の地名。明治20年(1970年、新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』45頁「神楽坂付近の地名」から)

袖摺坂、弁天坂、五味坂(神楽坂付近の地名。明治20年から)

2.歴史

 新宿区の『地図で見る新宿区の移り変わり–牛込編』から取った地図です。新板江戸外絵図(寛文12年、1672年)では神楽坂の袖摺坂はこの辺りを示します。

新板江戸外絵図

 また、下図は簡単な段差や階段があると示します。

段差

「御府内往還其外沿革図書 拾壱」「牛込藁店坂通西の方肴町末寺町辺の部」で、さらに細かく描かれています。

当時之形。調査は天保元年(1830年)(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』昭和57年から)

御府ごふないこう」巻之55「牛込之三」の「御箪笥町」では……

「坂 登凡十間程
右町内東之方肴町境に有之里俗袖摺坂又は乞食坂共唱申候袖摺坂は片側高台片側垣根ニ而両脇共至面セまく往来人通違之節袖摺合候乞食坂は五六十年以前迄は右坂ニ無宿非人之類休泊候樣子ニ而右様中伝候哉ニ御座候」

 なお、御府内備考は幕府の地誌編纂事業の一つで、「御府内備考」の総裁は大学頭林述斎、幕臣の間宮士信らが編纂し『御府内風土記』編纂の際に参考した資料を編録し、文政12年(1829)に完成。正編は「江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等。続編は寺社関係の資料等。なお「御府内風土記」は明治5年(1872)の皇居火災で焼失しました。

 御箪笥町の「東之方肴町境」の意味は、左端にある御箪笥町と接する東方の「肴町」「肴丁」のこと。これは1つだけで、すぐ近くにある「肴丁」です。

牛込市ヶ谷御門外原町辺絵図。嘉永4年(1851年)(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』昭和57年から)

 また「町方書上」の「御箪笥町」文政10年(1827)頃では……

町内東之方坂 弐ヶ所
  但袖摺坂登り南ゟ北江凡十間程
   弁天坂登り凡十三間程
右坂者町内与同所肴町堺之坂、里俗袖摺坂又ハ乞食坂共唱、袖摺坂者片側高台、片側垣根二而両脇共至而せまく往来人通り違ひ之節袖摺合候、乞食坂者五六拾年以前迄者右坂二無宿非人之類休泊致候様子二而右様申伝候哉二御座候
、其外申伝承り及不申候

 では、明治時代にやってきました。

東京図測量原図、明治16年(1883年)(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』昭和57年から)

 上の明治16年には両側の町は「牛込箪笥町」と「肴町」の2つです。また、それより早く明治9年(下図)の両側の町は「牛込箪笥町」と「牛込岩戸町」になっています。

明治東京全図 明治9(1876)牛込付近(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』昭和57年から)

 明治29年(下図)は袖摺坂の右下に新しい急峻な坂(蛇段々)ができます。「だんだん」は「数段、特に階段」の意味。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)では、明治28年に蛇段々はなく、明治29年にはありました。

明治29年 8月 調査東京市牛込区全図(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』昭和57年から)

 上図で赤色は箪笥町、青色は岩戸町、緑色は横寺町です。袖摺坂の両側は横寺町と箪笥町と変わっています。

 この間、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊「新撰東京名所図会」が刊行されていました。これは図版や写真が入り、全64編、近郊名所17編です。
 「新撰東京名所図会」の牛込区は明治37年(上)と39年(中下)に発行し、「牛込箪笥町」は「牛込区之部 中」として出版。「箪笥町の東、岩戸町界に坂あり袖摺坂という、崖地に雁木を設け、折廻わしたる急峻の坂なり、而も坂狭隘往来の人、互ひに袖を摺合わす故に名づくと。又乞食坂の名あり」

 この時、袖摺坂の両側は正しくは箪笥町と横寺町ですが、「新撰東京名所図会」は一つ昔の箪笥町と岩戸町になっています。

 昭和6年の内山模型製図社編「東京市牛込区地籍図 地籍図」(内山模型製図社)をみてみます。将来の「蛇段々」が地図の破線として描いています。

東京市牛込区地籍図 地籍図(内山模型製図社)昭和6年

 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)を信じる場合、蛇段々は明治28年になく、明治29年に初めて出現します。一方、内山模型製図社『東京市牛込区地籍図 地籍図』を信じる場合、蛇段々は昭和6年になっても、まだ先の先の話でした。

 昭和16年(下図)の地図は、右手の「蛇段々」と、新たに左手の仮称「新蛇段々」(南部坂、S字状の坂)が見られます。段々(階段)ではなく砂利敷でした。また「新蛇段々」が大久保通りと交わる町は箪笥町でした。

牛込区詳細図。日本統制地図株式会社。昭和16年(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

 昭和21年「東京空襲を記録する会」で、蛇段々はありましたが、昭和35年、人文社の住宅地図ではなくなっています。おそらく終戦時の混乱に蛇段々はなくなったものでしょう。

新宿区詳細図。昭和22年。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』昭和57年から)

 さらに進めていき、昭和56年は…

昭和56年 新宿区史跡地図(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』昭和57年から)

 あれれ、こまった。地図上の袖摺坂の位置が違う。新しい坂が袖摺坂になっている。弁天坂も違う。
 そこで、困った時は新宿歴史博物館。そこで聞きました。答えは……

新宿区が袖摺坂としている根拠について
『御府内備考』御箪笥町の書き上げに
「坂、上り凡そ十間程、右町内(御箪笥町)東の方肴町境にこれ有り。里俗袖摺坂または乞食坂とも唱え申し候。袖摺坂は片側高台片側垣根にして、両脇とも至ってせまく、往来人、通り違いの父子、袖摺合わせ候。」とあります。
 江戸時代、肴町は、当時武家地を間に挟んで5か所に散在する町屋でしたが、明治5年に北部を残して、その大部分は武家地とともに岩戸町に編入され、一部は横寺町に編入されました。
『御府内備考』の示す肴町は、横寺町に編入され「横寺町65番地」となったところです。
 袖摺坂の位置については、『御府内備考』の内容の解釈違いによるものと思われます。
 以上が、新宿区が袖摺坂を特定している根拠です。
 なお、坂の位置は新宿区教育委員会発行の『地図で見る新宿区の移り変わり』牛込編 で確認できます。新宿歴史博物館 佐藤

 なるほど。これで全く正しいようです。でも、そうじゃないとおかしい。昔の絵図には現在の地図と全く違わない坂があるから。以上、現在のほうが正しく、昭和56年の地図は間違いでした。

3.蛇段々を袖摺坂と混乱

 他にも「蛇段々」を間違えて「袖摺坂」と描かれた文献も小数ながらあるのです。たとえば、横関英一氏の『続江戸の坂東京の坂』(有峰書店、昭和50年)では袖摺坂は大久保通りから南東へ上る坂だと述べています。

 江戸時代には、袖摺そですり坂、袖振坂、袖引坂という坂があったが、これらは、むしろ江戸に少なく、地方に多い坂の名であった。
 袖摺坂というのは、いずれも狭い坂のことで、人と人とが行き交う場合に、狭いので袖をすり合わせるようにしないと、お互いに行き過ぎることができない、というような狭い坂のことをいったのである。鐙摺あぶすり坂というのもあるが、これは坂が狭いので騎馬のままでは、行き交う場合、お互いにあぶみをすり合わせるようにしないと通ることができないような狭い坂みちの形容である。現在東京には次の二個所だけに袖摺坂が残っている。両方とも昔は狭い坂であったのだが、今日ではいずれも広い坂みちになっているので、袖摺坂という感じではない。東京の坂である以上、やむをえないことである。
 新宿区岩戸町から、北町と袋町との境を、南へ上る坂が袖摺坂である。しかし、戦後はこの坂道もすっかり改修されて、大きな道幅の広い坂になってしまった。
 この坂について、『御府内備考』は、次のように記している。「坂、登凡十間程、右町内(御箪笥町)東之方肴町境に有之、里俗袖摺坂又は乞食坂共唱中候、袖摺坂は片側高台、片側垣根二而、両脇共至而イタツテ、せまく往来人通違之節、袖摺合候……」

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)でも同じです。

 袖摺坂(そですりざか) 岩戸町の旧都電通りから、北町と袋町の境を南東へ上る曲った坂路で、坂上に南部氏の邸宅があることから最近の住民は南部坂とよんでいる。

 また『地図で見る新宿区の移り変わり 牛込編』の矢代氏が書いた「土地に刻まれた歴史」で「袖摺坂」は間違いで、正しくは「蛇段々」の思い出話なのです。

土地に刻まれた歴史   矢代和也
 袋町の高台から現在の大久保通りに向って、急峻な段坂が屈折しながら下っていた。石段や敷石の部分を除くと、雨の時には足を滑らせそうな細々とした坂道で、両側には階段状に小さな家々が建っていた。「袖摺坂」である。(違います。南部坂、S字型の坂、あるいは新袖摺坂です。)この坂道は「安政絵図」にも、それ以後の絵図・地図にも表記されていず、1896(明治29)年の「東京市牛込区全図」、「帝都復興東京市全図」(『新宿区地図集』)に道路拡張の予定地としてはじめて記されている。しかし、この程度の道幅の段坂でも、たとえば、柳町の通りの寿司屋の角から甲良町の方へぬける名もない段坂が、すでに「安政絵図」に表記されているので、きわめて不思議な坂道に思われる。 私の小学校の上級のころ、「袖摺坂」の道路拡張の工事がはじまった。家屡が立退かされ、赤土の高い崖が露出した。悪童たちの絶好の遊び場が一つ増えることとなった。学校の禁を犯して、急崖をすべり下り、また上る、泥のぶつけ合い。中腹に糾めに生えた木にのぼって、ユサユサとゆすって、下級生に悲鳴をあげさせたり、親の洗濯の苦労も知らずに、頭の天頂まで、泥まみれになって遊んだものである。 やがて、太平洋戦争もはじまろうというころ、砂利敷ではあるが、現況のような道路が姿をあらわし、1941(昭和16)年の『牛込区詳細図』に、拡張道路として表記されることになった。(違います)

 「袖摺坂」は江戸時代に御府内備考や町方書上に描かれています。しかし、明治後期・大正・昭和初期には忘れされていました。再度、出てきたのは昭和56年、新宿区教育委員会の「新宿区史跡地図」からです。その際に「右(御箪笥)町内東之方肴町境に有」(御府内備考)の「肴町境」や、「箪笥町の東、岩戸町界に」(新撰東京名所図会)の「岩戸町界」は、どこだかわからずに、間違えた位置をそのまま地図に描いてしまい、しばらくの間、その場所も定着してしまいます。

 同じく穂積重行氏が「屋敷町にて」(『地図で見る新宿区の移り変わり 牛込編』)では……

 私の立っている町角からさきには、米屋・魚屋・八百屋・煙草屋・洗濯屋など中位の店にまじってしもたやがならんでいたのだが、もちろん一面の廃墟だった。突当りを右へ曲ると藁店わらだなから神楽坂、左は北町の通りだが、斜め左へ都電通りへおりる広い坂道がある。今は「袖摺坂」という柱が立っていて、「それほどせまかった」との説明があるが、昭和ひとけたまで全くその通りで、子供の目にはうすきみわるいほど暗くじめじめした、所々に木の段々がある、まるで山かげのようなその小路を、私たちは「こじき坂」とよんでいた。

 実際は「袖摺坂」の標柱も堂々とついています。

 次は粋なまちづくり倶楽部の「まちの想い出をたどって」第2集(2008)の鳥居秀敏氏の議論です。

 新宿歴史博物館が「この石段が袖摺坂だ」ということの根拠として、イの一番に挙げているのは『新撰東京名所図会』です。これは、風俗画報の臨時増刊で、明治37年に『牛込区の部・上』というのが出ました。それには、神楽町一丁目から横寺町までが含まれており、箪笥町とか岩戸町とかはおそらく「中」に載っているのだと思います。明治37年に刊行されたものですが、幸い明治40年発行の『牛込区全図』(東京郵便局、明治40年)がありますので、それを見ながらお話を進めていきたいと思います。では根拠として挙げられている資料を読んでみます。
 『新撰東京名所図会』に、「箪笥町の東、岩戸町界に坂あり。袖摺坂という。崖地に雁木を設け折廻はしたる急峻の坂なり。而も坂路狭隘往来の人、互いに袖を摺合わす故に名づくと。又乞食坂の名あり」と書いてあります。このような表現と地図を対比しながら、謎解きをしていきたいと思います。
 まず最初に「箪笥町の東、岩戸町界にあり」と書いてありますので、箪笥町と岩戸町の境を明治40年のこの地図から探してみたいと思います。岩戸町と書いてある部分の「町」という字の少し先に、南蔵院があります。南蔵院は箪笥町42番地で、その隣に43番地、44番地があって、その先は少し線が太くなっています。ここが岩戸町と箪笥町の境目です。岩戸町も箪笥町も大久保通りの南側と北側の両方にまたがっていますので、反対側を見ると南蔵院の前に1番、2番、3番と番地がふってありますが、これは箪笥町です。箪笥町1番地の向こう側は横寺町です。これは明治でも現在でも変わりありません。ですから横寺町側には岩戸町、箪笥町境というものは、もともと存在しないわけです。ですから横寺町の公製便所のわきの石段は、袖摺坂ではないと考えられます。
 そして一番問題なのは、新撰東京名所図会には「坂路狭隘往来の人、互いに袖を摺合わす故に名づく」とありますが、石段とその上の坂が果たしてそんなに狭かったのか。牛込区全図から幅が何メートルであったかという結論を出すのは無理だと思いますので、明治16年の五千分の一の地形図のコピーをご覧いただきたいと思います。
 この地図は参謀本部の測量ですから道幅は信頼できます。それを見ますと大信寺から大久保通りへ向かって下ってくると、現在は石段を下らず90度右へ曲がる坂道がメイン道路になっていますが、この地形図ではまっすぐに大久保通りへ下る坂道がメイン道路で、右へ曲がる道路は補助的な道路であることが読み取れます。もちろん当時はまだ石段になっていません。この地形図を見ますと、法正寺と宝泉寺には石段の符号がありますが、大信寺前の坂にはありませんから、石段ではなかったということが分かります。5千分のー(5千分の一地形図の拡大図)の地形図で測ってみますと、一番狭い部分が1ミリあります。1ミリあるということは、5メートルあったということです。5メートルある道幅で、行き違う人の袖が摺り合うはずがない、というのが私の「ここは袖摺坂ではない」という一番大きな根拠なのです。
 次に嘉永年間の江戸切絵図(32ページ)をご覧ください。明治になる17年くらい前のものです。この切絵図は、もちろん縮尺もなければ方位も書いてないような地図としては大変不完全なものですが、大信寺前の坂は大変立派な坂に描かれています。袖が摺れ合うような、あるかないかの細道をこのような立派な道に描く道理がない、そういう点から言いまして、江戸時代すでにしっかりとした立派な道であったと思います。またあの石段がもし袖摺坂であるのなら、新撰東京名所図会「上」の横寺町のところにに載っていてもいいのではないかと、そんなことを考えます。
 次に二番目の『御府内備考』(江戸幕府官撰の江戸地誌、文政2年《1828》刊の焼残り資料)を読んでみますと、「坂、登凡十間程右町内東之方肴町境に有之、里俗袖摺坂又は乞食坂共唱申候。袖摺坂は片側高台、片側垣根にて、両脇共至而せまく、往来人通違之節袖摺合候。」と書いてあります。まだ石段になっていなかった頃のこの坂はごく普通の坂で、「片側高台」というような地形ではありませんし、もちろん幅はそんなに狭くはないと再三申し上げた通りです。また、「坂、登凡十間程」と書いてありますが、十間は約18メートルで、大信寺前の坂は50メートルくらいはあります。そして、50メートルのうちどこの部分の18メートルが袖摺坂なのかという合理的な説明を付けることはできません。色々な意味で、この坂は袖摺坂ではないと考えられるわけです。
 ところで先ほど、「肴町境」という問題を検証しないまま話を進めてしまいましたが、江戸時代には武家地や寺社地には町名がなかった、町名が付いていたのは町地、つまり町人の住む町だけだったと聞いております。そこで先ほどの江戸切絵図を見ると一軒分だけ肴町と書いてありますけれども、では肴町というのはどこにあったのかというのを切絵図で探してみますと、肴町は六つのブロックに分かれており、肴町と一口に言っても一つの纏まった地域という感じは湧いてきません。従って当時は「肴町境」といわれても、どこを指すのか理解しにくく、御府内備考を書いた人さえ町の境界について十分認識していたのかどうか、という疑問さえ感じます。
 そこで御府内備考の「肴町境」と、新撰東京名所図会の「岩戸町界」のどちらが間違いだと思うかと問われれば、私は町界意識の曖昧な江戸期の御府内備考の方が、より信頼できないような気がします。然し肝腎なのは、「肴町境と岩戸町界のどちらが正しいか」ではなく、「横寺町の坂は決して袖が摺れ合うほど狭くなかった」という事実です。

 この反証は「『蛇段々』は主に肴町にあり、江戸時代では武士の管轄なのです。武士の管轄にはいるのは絶対になかった。『蛇段々』はあくまでも明治になってからの道路です。袖摺坂は江戸時代にもありました」

4.文献

 色川武大氏が書いた「わが馴染みの横町 神楽坂」(『東京人』、1988年6月)でも、「蛇段々」を書いています。
 氏は小説家で、昭和36年「黒い布」で文壇にデビュー。昭和52年「怪しい来客簿」で泉鏡花文学賞、昭和53年「離婚」で直木賞。また阿佐田哲也の筆名で「麻雀マージヤン放浪記」などのギャンブル小説も出しています。生年は昭和4年3月28日なので、この文章は59歳に書かれたものです。

 カーブして津久戸の方に抜ける現大久保通りも、ストレートな大通りではなくて、市電がぎしぎしいいながら人家の中にわけ入っていったような記憶がある。いったいに道幅を拡げていた時期で、江戸風な小道が整理され、改正道路と称する舗装道路になっていった。改正される前のたたずまいがなつかしいのだけれど、私などの年齢では具体的な記憶がすくない。
 北町と肴町の間にある坂のあたりは、両側が崖のようになっていて、袋町の方面に昇る蛇段々という曲りくねった段々があった。ここは蝉とりの名所で、ひときわなつかしいが、今は何の風情もない舗装の坂道だ。往時のあの泥道というものは、ぬかるむと始末がわるいが、下駄に適合していた。舗装になって、下駄では頭に響いて歩きにくい。私は下駄が好きだから、泥道の柔らかさがなつかしい。
 夏の夜は、浴衣を着て親に手をひかれ、矢来の方から出て、夜店を眺めながら坂下まで散歩し、外濠のほとりで涼んだり、ボート遊びをしたりして、また同じ道を戻ってくる。なんということはないが、当時、恰好のリクリエーションだった。花火屋のおばさん、玉蜀黍売りの婆さん、古本の店、詰将棋、バナナ売り、盆栽屋、皆はっきりと顔が浮かんでくる。坂上の熊公焼きは特に有名だったが、単なるあんこ、、、巻きだ。

改正道路 明治時代から大正時代の都市計画を「市区改正」と呼び、市区改正で整備した新しい道路を「改正道路」と呼びました。「改正道路」が出現する以前には道路幅員は狭く、上下水道など都市基盤の整備も遅れ、大火も起こりました。

 「神楽坂まちの手帖」(展望社、平成16年)第5号では複数の坂を取り上げ、その中でも上田邦彦氏は袖摺坂を推薦しました。氏は「牛込箪笥町地域センターの会長をしているので、大久保通りにある箪笥町地域センターへ行く道すがら、袖摺坂をいつも横目に通りすぎます。こんな小さな坂に何故名前があるのかと、いつも不思議に思いますね」。ただし、実際の執筆者はふじみねこ氏でしょう。

 この坂は昔から急坂だったようで、『新撰東京名所図絵』には「崖地に雁木を設け、折廻したる急峻の坂なり。しかも坂路は狭隘往来の人互ひに袖を摺り合す故に名づく」とある。13段で一休み、また13段と石段が26段続くこの坂は、いまでも急坂の部類にはいるだろう。現在の坂幅は約1・5メートル、すれ違うときは思わず横に一歩からだを引く。傘をさす雨の日は前方から誰かが来れば、坂の入り口で通り過ぎるのを待つ。さながら工事中の片側通行状態である。
 大久保通りの坂下から見て、左側は石垣で、親切に手すり付き。右側は人家の塀。「御府内備考」にある「袖摺坂は片側高台、片側垣根二而、両脇共至而、せまく往来人通違之節、袖摺合候…」の面影をいまも残す。いっときゴミが多くて閉口したときがあったが、最近はきれいに清掃されていて気持ちがいい。近隣住民のご努力だろうか……感謝。
 袖摺坂は短い坂だが、風景が大きく違う場所を結ぶ異空間移動の坂である。坂下は車がひっきりなしに往来する大久保通りで、坂の入り口脇には洞窟風の公衆便所がある。昔は馬の水場だったと言われるとなるほどと思わずうなずくレトロなお便所は、いまはもっぱらタクシーの運転手さん御用達。前を通ると三度に一度はハザードランプを点滅させたタクシーが止まっている。スッキリ顔でタクシーに乗り込む運転手さんを横目に、26段の石段を少し息を切らして上がりきると、そこは一転閑静な住宅街である。そのまままっすぐ進めば朝日坂にぶつかる。尾崎紅葉の旧居跡も左折してすぐそこだ。
 袖摺坂の坂上はとりわけ桜の頃が美しい。坂上左側にある大信寺の2本の桜の大木は見事で、坂上の路を薄紅の花吹雪が舞うとき、私は密かにここは知られざる桜の名所だと思う。
 ところで、袖摺坂の石段に腰掛けて菓子パンなんぞ食べながら休憩している若者を見かけることがしばしばある。ときどきカップルも。なんでわざわざこんなところに好きこのんで……ちょっと邪魔だよ、なにしろ狭いんだから……いやいや、ここは袖摺坂、袖すり合うも多生の縁か、やっぱりどうぞごゆっくり。
(ふじみねこ)

5.写真

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: IMG_4314-1024x768.jpeg
現在の新蛇段々、S字状の坂、南部坂(2026年1月)
現在の新蛇段々、S字状の坂、南部坂(2026年1月)

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です