ポルタ神楽坂

 神楽坂2丁目の建物で、地元地権者と東京理科大学の共同再開発事業で、築年は平成23年(2011)、地下1階・地上7階です。「ポルタ神楽坂」のPortaはラテン語で城門のこと。マンションと東京理科大学の新施設ですが、1、2階にはたくさんレストランが入っています。あっという間もなく消えていった店も沢山あります。また、昔ここにカフェーユレカ(あるいはユリカ)がありました。

ポルタ神楽坂
ポルタ神楽坂

二丁目食堂トレド

二丁目食堂トレド

「二丁目食堂トレド」は創業は昭和47年(1972)です。ここ神楽坂で始まり、まえのビルがないと消え、新しい建物ができると戻ってきました。以前も裏通りで、今度も裏通りです。「継ぎ足しカレー」で有名です。

神楽坂 梅花亭

神楽坂 梅花亭

「神楽坂 梅花亭」の創業は昭和10年(1935)ですが、でも、ここで始まっているわけではありません。場所は池袋です。神楽坂6丁目の出店は平成20年(2008)。平成23年(2011)にポルタ神楽坂店を開店。池袋などは閉店し、現在は神楽坂の2店舗のみになりました。もちろん和菓子です。けっこうおいしい。

ユレカか、ユリカか

 小松直人氏の”Café jokyû no uraomote ”(二松堂、昭和6年。日本語訳はたぶん「カフェー女給の裏表」です)ではユリカというカフェーがありました。

 省線飯田橋駅で下車して、電車道をのりこえ坂をのぼつて行けば、左側にユリカ、神養亭の両カフエが並んでいる。ユリカは神楽坂界隈切つてのハイカラなカフエで、女給の数は十人を越え、サービスも先づ申し分がない。それに隣の神養亭は、レストランみて面白くない。

 新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(2009年)の岡崎公一氏が書いた「神楽坂と縁日市」でも、昭和5年頃、カフェーではなく「酒場ユリカ」として登場します。

 新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』。左は平成8年12月、右は昭和5年頃の上を向いて左側の商店です。

「神楽坂と縁日市」

「神楽坂まちの手帖」第18号(平成19年)に、佐々木光氏は「神楽坂にバー『ユレカ』を開いた詩人・へん猶吉ゆうきち」を書き

 昭和3年、“牛込見附から坂にむかって左側の白十字の一軒おいた隣り” (菊地康雄『逸見猶吉ノオト』 昭和42年思潮社)に高級酒場「ユレカ」が開店した。当時「白十字堂」なる喫茶店が神楽町2ノ6に在ったからその辺であろうか。バーの店主・大野四郎(筆名・逸見猶吉)は、暁星中学を経て早稲田に学ぶ眉目秀麗なまだ20歳であった。現代作家の村上春樹氏も一時期、学生時代からジャズ喫茶を経営していたが、昭和の初め、生活のためでもなく学生がバーをやるというのはかなり破天荒だったに違いない。店名のユレカ(ユーレカ)とは「見つけた!」「わかった!」との意で、古代ギリシャの学者・アルキメデスの歓喜の叫びとしても知られる。資金は四郎を溺愛する母が出したという。萩原朔太郎等が飲みにきていたものの放漫な経営で算盤は合わず、店は長くは続かなかった。なにせ開店したその年に四郎は早くも店を弟の五郎(画家。明治43~平成18)に託して飄然と北海道へと旅立ってしまったほどだ。

 で、問題です。よく似た場所に二つの違うバーはあったのか、同じ場所に二つの違うバーがあったのか、あるいは同じ場所に一つのバーだけがあったのか。どちらでしょう。たぶん私は一つしかなかったと思います。名前は「ユレカ」か「ユリカ」か。わかりません。非常によく似ています。レタリング如何によってはわからない場合もあると思います。でも経営に携わった弟の大野五郎氏はユレカを正しいと信じているようなので、ユレカをとりたいと思います。
 現在の場所は白十字も、ユリカかユレカも、神養亭も同じビル、理科大の巨大な「ポルタ神楽坂」の一部になりました。

昭和5年頃平成8年令和2年
甲斐屋布団太陽堂陶器
大川時計店増田屋食肉
八幡小間物松屋 牛丼
村田煙草店
山岸玩具店安曇野食堂ポルタ神楽坂
伊沢袴店
盛光堂煎餅十奈美化粧
酒場ユリカ
三好屋玩具喫茶パウワウ
カフェ神養軒
三好質屋バーゲン場

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