井口悦男、生田誠「東京今昔歩く地図帖」学研ビジュアル新書、2010 明治期に入ると「神楽坂」沿いは武家屋敷から町人の街へと変わり、明治10年代に緩やかな坂道に直されている。寺町の岡場所から花街も誕生、1895(明治28)年には甲武鉄道(現・JR中央線)「牛込駅」の開業もあり急速に発展、東京有数の繁華街として賑わうようになった。また、周辺は尾崎紅葉、坪内逍遥をはじめ多くの文人が居住・活躍する場ともなり、文化的にも大きく発展した。写真は明治後期~大正期、「神楽坂」下からの撮影。左手前角の建物は菓子店「壽徳庵」。三井住友トラスト不動産株式会社
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この写真から文字に落とせるものは少なく、左側は電柱広告「泌尿科・皮膚科・内科 坂口病院」、寿徳庵(和菓子)の「大福」、「東(京堂)」の「シャツ洋品」、右側は「髙〇 石油 ガスコンロ」。人々は冬服。電力柱(左側)と電信柱(右側)。

から坂の上を見た風景。明治中期に、急な坂がなだらかに改めら.jpg)
坂口病院は3科に分かれていますが、何と読むのでしょうか? 最初の中央の漢字を「尿」と読むと、「泌尿科」になります。2番目は「皮膚科」と読む以外になく、3番目は「外科」よりも「内科」と読むのでしょう。この時代が大正時代だとすると、他に「花柳病科」(現在は性病、性感染症)、「脚気病院」、漢方医ではなく「漢法医」、「食養療医」、「女医」がありました(東京区分職業土地便覧、大正4年)。「日本紳士録 第1版」(交詢社、明治22年)では「医師 坂口前」がありました。
日本女医会が設立された明治35年(1902)、医術開業試験に合格した公認女医は約100名でした(日本女医会による)。牛込区では木村よの子氏と東京女医学校(現在は東京女子医科大学)の創立者である吉岡彌生氏との2人だけでした(東京区分職業土地便覧、大正4年)。
電力柱(左側)と電信柱(右側)があり、腕木の数でみると電信柱の方が電力柱よりも一般的に多くなっています。
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