1.寺の役割
「新撰東京名所図会」第42編(東陽堂、明治39年)の「南蔵院」では……
当山は元和元年(明治39年を距ること292年)の創立にして、開山は下総国千葉介郡胤の次男なり、天正18年千葉家滅亡の後ち身を仏門に投じ、下総国海上郡鹿ノ戸村妙憧院清胤阿闇梨の室に入り剃髪して正胤と号す、爾来蛍雪の勤め怠らず、顕密の経典に眼を曝らし、徳積み業成て後ち、外戚なる豊島郡早稲田の里に住める牛込三左衛門勝重の懇請に応じ、同地に一寺を創立して吉祥山福生院(榎町宗柏寺の辺)と称せしが、後延宝9年(元和元年より67年を経)幕府の命により現今の地に移り、天谷山龍福寺南蔵院と改称す。
他に解説として山門、弁財天堂、盥水盤(水をためて手を洗う手水鉢。「盥」はタライのこと)、額堂、聖天堂、矼(石橋)、大師堂、本堂、広間がありました。
「牛込区史」(昭和5年)では……
元和初年、早稲田在弁財天上宮(今の弁天町ででもあろう)の別当として、正胤法印開山、寺号を吉祥山福正院と云ったが、延実九年箪笥町に移り、寺号を改めた。開山法印正胤寛永7年2月29日遷化。舊境内拝領地838坪3合餘、年貢寄進地235坪。本尊辨財天は弘法大師の作といい伝う。
寺中 安養院
同上 薬王院
2.寺以外の役割
「牛込区史」では……
1 警察として
南蔵院は初期から明治8年まで巡査屯所として働いていました。
7年9月10日六小区の両巡査屯所は合併せられ、第3大区5、6小区巡査屯所と改称し、前記南蔵院に置かれた。
8年5月1日各大区警視出張所、竝びに巡査屯所の名称を改めて各警視分廳(廳は庁と同じ)各署となした時、本区は警視第三分廳第四署となり、同年9月8日牛込神楽坂1丁目8番地の新築廳舎に移った。
2 由比正雪の抜け穴
雑誌『ここは牛込、神楽坂』第7号の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会で「由比正雪の抜け穴」の話題が出てきます。糸山氏は袋町・光照寺住職、山本氏は袋町・山本犬猫病院、小林氏は神楽坂5丁目・小林石工店、司会は日本出版クラブの大橋氏です。
昭和43年、新宿区教育委員会の『新宿の伝説と口碑』では……
[時代]江戸時代
[場所]袋町 光照寺
神田連雀町(今淡路町)に住んでいた由比正雪は、光照寺付近に住んでいた楠不伝の道場をまかせられて、光照寺のところに移ってきた。
明治末のことである。光照寺の井戸替えをしたところ、井戸の途中に横穴が見つかった。その横穴は、150メートルも離れた箪笥町の電車通りにある南蔵院まで続いていたという。
昭和32年、光照寺の西北の日本出版クラブの建築工事の時、地下10メートルほどの所に、ぽっかり大きな横穴が出てきた。穴はかなり奥深くまで通じているらしかったが、危険なのと薄気味悪いので誰も奥に入ろうとはしなかった。また江戸時代初期の徳利や實永通宝、その他の古銭などが発掘された。
そこは、江戸時代は旗本奴で有名な水野十郎左衞門の邸跡だから、その地下牢だろうという説が出たが、ここは水野邸跡でないことが分かった。それではやはり光照寺境内から続ている由比正雪の抜け穴だということで話題をまいた。
[原典] 毎日新聞 昭和32年10月17日連載記事「武蔵野の城あと」No16牛込
[解説] 明治末にここに抜け穴があったと伝えられたのは井戸替えしていた職人の1人が、休憩中に南蔵院に遊びに行き、碁を打って遅くなったので、横穴をたどって行ったとうそをついたことがもとで広まった話である。
昭和32年の時は、それが抜け穴でないなら麹室だとか、牛込氏の貯蔵庫(光照寺跡一帯は牛込氏館跡であることから)だとか、いろいろ話題でにぎわったのである。
江戸研究の綿谷雪氏は「続江戸ルポルタージュ(昭和36年6月) 人物往来社」の中でつぎのように書いている。
『夢想家の彼にとって、もっとも似つかわしい秘密工作であったとみてよろしいのではあるまいか。
抜け穴は、城にはつきものである。城によっては実現したかもしれないが、秘中の秘だから記録は全く残っていないし、軍学者の築城術の本を見ても、どこにも抜け穴という項目はない』と。
しかし、由比正雪が幕吏の目をくらませて、世間に知られないように抜け穴などが掘れたものであろうが、もしも掘れたとすれば、その掘り出した土の処理を、世間に分からないように処理することができたであろうか。
3.写真
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8294は南蔵院、正確には真言宗豊山派の天谷山竜福寺南蔵院を撮ったものです。住所は新宿区箪笥町42番地。撮影は「昭和44年頃か」

石の門柱に小さく「南蔵院」の表札があります。その右に「大聖歓喜天」の石標、よく見ると左側にも同じくらいの高さの石標があります。現在は新しい門柱に代わっていますが、両脇の石標は残っています。
本堂がやや奥まって建っているのは大久保通りの拡幅計画に備えたものです。本道の後ろのコンクリートの建物は前田建設牛込北町寮で、2016年頃までありました。
歩道と車道との間には段差があります。昭和35年(1960年)のID 565とは違うのはガードレールができたことです。右側の電柱にはパチンコ「おおとり」と「旅荘駒」の広告があります。
前の大久保通りには都電13系統の石畳の軌条があります。その脇の車道は、良く見るとピンコロ石で舗装してあります。この部分は「弁天坂」と呼ばれる坂なので、滑りにくくしたものでしょう。
大久保通りの都電は昭和45年(1970)に廃止されました。
元和元年(1615年)吉祥山福正院と称して、早稲田に創建、弁財天2体を上宮・下宮として祀っていましたが、御用地となり、延宝9年(1681)上宮と共に当地へ移転し、南蔵院と改号しました。なお、もう一体の下宮は弁天町の宗参寺に祀られています。
ID 14135からID 14142までの8枚も南蔵院を撮ったものです。これは前の写真「ID 8294」と似ていて、同じく冬期の写真です。



さらに狛犬の台座から写真の加工編集を使うと(下図)「現住祐運代」?が浮かびます。


これは「天谷」と読めます。

2023年現在の南蔵院は下の写真のように左の本堂と右の大聖歓喜天堂が並んでいます。昭和44年には本堂はありませんでした。
本堂や墓苑が奥まっていますが、手前の部分は大久保通りの拡幅で道路になる予定です。
4.挿絵
岡崎清記氏の『今昔東京の坂』(日本交通公社出版事業局、1981年)は下記の挿絵の説明が出ています。「ゆであずき」と「甘酒」を売る屋店ばかりではなく、「おでん」の屋台も出ています。

<別名>芥坂
北町42、南蔵院前を西南に下る、ゆるやかな勾配の広い坂。
『新撰東京名所図会』山本松谷画「牛込南蔵院弁天坂の図」を見ると、大きな荷を積んだ車を二人の男が足をふんばって押している。車はジグザグに上っている。かなりの急坂であったことがしれる。人通りも多い。南蔵院の壮麗な門の前に、ゆであずきを売る店があり、道端のおでんの屋台には子供が群がっている。長い袴姿の女学生が二、三人おしゃべりをしながら行く。
「坂登リ凡十三間程
右同所(旧御箪笥町)南蔵院前町内入口ニ有之里俗弁天坂と唱申候右は南蔵院地区内ニ名高キ弁財天安置有之候ニ付右様唱来候哉ニ奉存候」(御府内備考)
真言宗天谷山南蔵院は、京都智積院の末寺で、寺地は千坪以上もある寺だ、と『東京府志料』は記している。山本松谷の絵にも、本堂をはじめ、堂々たる建物が描かれている。
芥坂の由来は、坂の一隅に塵埃の集積所でもあったに因るものであろうか。
5.写真
2023年の南蔵院は下の写真のように左の本堂と右の大聖歓喜天堂が並んでいます。昭和44年には本堂はありませんでした。
本堂や墓苑は奥に、手前は大久保通りの拡幅で道路になる予定です。
現在の南蔵院です。左の本堂と右の大聖歓喜天堂です。本堂は昭和44年以降にできました。


狛犬は右と左で口の形が違っています。右の狛犬は口を開いて阿の音声を、左の狛犬は口を閉じて吽の音声を出しています、密教では、この2字を万物の初めと終わりを象徴します。
大聖歓喜天堂の右、墓苑に向かう道には小屋があり、物置のように使われています。なお、手水鉢は神社の施設で、ここにはありません。

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