大田南畝|中町

 おおなん氏は江戸後期の狂歌師、戯作者でした。別号はしょく山人さんじんものあかぼけ先生など。通称は直次郎、71歳で七左衛門に改名。名はたん(かな名は伝られず、「たん」以外に「ふかし」「えん」もOK)、生年は寛延2年3月3日(1749年4月19日)、没年は文政6年4月6日(1823年5月16日)。74歳。ちなみに明治元年は1868年なので、四半世紀後に、明治維新が始まります。

 籠谷典子氏の「東京 10000歩ウォーキング No.13 新宿区神楽坂・弁天町コース」(真珠書院、2006年)では……

大田南畝の住居跡
         新宿区北町41番地
《こどもらよ笑はば笑へわらだなのここはどうしよう光照寺前》と詠んだ狂歌が伝わる大田南畝は、光照寺と日本出版クラブ会館前の地蔵坂を西へ歩いて行った突き当たり、江戸期には徒組かちぐみ だいじょうと称された一隅で寛延かんえん2年3月3日に生まれ、ここに文化元(1804)年の55歳まで住んだ。
 父大田正智まさともと母利世りせの長男として生まれてなおろうと名付けられ、長じてふかしと名乗った。大田家代々は70俵5人扶持の徒士かちを嗣ぐ幕臣であったが、幼少より神童と噂された直次郎は、母の才覚で当代一流の学者を選び、漢学を松崎まつざき觀海かんかい、和学を内山うちやま椿軒ちんけんより学んだ。

北町41番地 実は出生地は「北町41番地」ではなく「中町37・38番地」でした。
日本出版クラブ会館 マンションの「プラウド神楽坂ヒルトップ」に変わった。
御徒組 江戸幕府の職名。将軍外出のとき、徒歩で先駆を務め、沿道の警備などに当たった
大縄地 江戸時代、武家屋敷(拝領屋敷)の一種。職務で編成された組があるが、組ごとに一括で拝領した屋敷地

 大田南畝は光照寺の前で転んだら子供が手をたたいて喜び、そこで狂歌を詠んだといいます。

こどもらよ笑はば笑へわらだなのここはどうしよう光照寺前

 ただし、これは蜀山人の全てをまとめた大田南畝全集の中にはありません。これは多分狂歌に似せた後世の咄でしょう。あるのは……

小鳥どもわらはゞわらへ大かたのうき世の事はきかぬみゝづく

大田南畝全集 第1巻

 ちなみに、小林ふみ子氏の「べらぼうコラム #32 狂歌界のスター・大田南畝、表舞台から退場へ——蔦重版の狂歌集に残る不自然な修正や隠蔽」によれば「きかぬみみづく」とは……

「聞かぬ耳」と「ミミズク」をかけことばにしながら、小鳥たちよ、笑うなら笑うがいい、ミミズクは大概の浮世の人びとの言い草などは聞いていないから、というほどの意味でしょう。

 なお、光照寺の奥にある「諸国旅人供養碑」のすぐ前に狂言師「便べんべんかんはか」が建っていますが、この湖鯉鮒氏も大田南畝氏と親交がありました。

便々館湖鯉鮒の墓

(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区登録史跡
便べんべんかんはか

所 在 地 新宿区袋町15番地
登録年月日 平成2年3月2日

 江戸時代中期の狂言師便々館湖鯉鮒は、本名を大久保平兵衛正武といい、寛延2年(1749)に生まれた。
 幕臣で小笠原若狭守支配、禄高150俵、牛込山伏町に居住した。
 はじめ朱楽菅江門下で狂歌を学び、福隣堂巨立と名乗った。
 その後故あって唐衣橘州門下に変り、世に知られるようになった。
 大田南畝と親交があり、代表作「三度たく 米さへこはし やはらかし おもふままには ならぬ世の中」は、南畝の筆になる文政2年(1819)建立の狂歌碑が西新宿の常圓寺にあり、区指定文化財に指定されている。
 文化15年(1818)4月5日没した。享年70歳であった。
 墓石は、高さ152センチである。

     平成3年1月 東京都新宿区教育委員会

1.どこて生まれたの?

 正しく「中町」で、これは100%の正解です。しかし「北町」という答えもありました。
 最初に「北町」が正しいという間違えた随筆や解説、解答を出しておきます。
 まず『東京名所図会』の「蜀山人の故宅」を読んでみると……

●蜀山人の故宅
 北町41番地に、太田南畝(蜀山人)の故宅ありて、其孫南岳なんがくここに成長す、後ち文豪故尾崎紅葉、南畝の旧宅と聞き、移て之れにじょうす(自明治23年
至同24年秋
)其横寺町(前編
掲載
)に転ずるや、江見水蔭之れに代れり、庭砌遺愛の椿は再び明治の文学者の賞する所となれり、当年の寝惚先生、亦以で栄とす可きなり。水蔭居を移して後、幾度か主を異にし、故宅漸く傾き、今や其趾をとどめずなりぬ。南岳は南宗派の画家にして、今の時に名あり、かつて十千万堂に遊ぶもの、はいを能くす、四谷荒木町に住せり

南岳 名は亨。南畝から五代下の大田家の当主。金森南塘門下の画家。大正6年7月13日に45歳で死亡。(鈴木貞夫氏の「大田南畝の牛込中御徒町住所考」自費出版、新宿区立中町図書館から)
庭砌遺愛 ていせいいあい。庭砌は庭の石畳。遺愛は亡くなった人が残した愛情や遺品など。

 また、新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』45頁に「神楽坂付近の地名」として「大田南畝故宅」が北町にあると描かれています。

神楽坂付近の地名

 しかし、鈴木貞夫氏が書いた『大田南畝の牛込中御徒町住所考』(自費出版、平成11年)は「牛込中御徒町」と正しく書いてあります。

 二 中御徒町とする根拠
(前略)南畝は享和3年(1803年)の由緒書の中で、住居を「牛込中御徒町」と書いているので、中御徒町に屋敷のあったことは確実であるが、以前に他の御徒組(例えば、北御徒町の西丸御徒2番組)から移ったとも考えられるので由緒書の祖父あたりから頭の系列(番組)を検討してみよう。

1.由緒書
 現在知ることのできるのは享和3年2月の「由緒書」、文化元年(月不明)の「明細書」、文化元年3月の「親類書」である。次に「由緒書」と「親類書」を掲げる。
          由  緒  書
高百俵五人扶持    本国生国共  武蔵
   内 70俵5人扶持本高 30俵御足高     支配勘定

大 田 直 次 郎   
当亥55歳
      拝領屋敷無御座候 当時牛込中御徒町 稲葉主税御徒組東左一郎地内借地仕罷在候
(後略)
2.御徒四番組の頭(省略)
3.その他
『一話一言』の「車留の札」に、
   「予がすむ所は、牛込中御徒町なりしかば……」(『全集』13—476)
 とある。

 そこで、浜田義一郎等編「大田南畝全集 第13巻」(岩波書店、昭和62年)を見てみます。

車留の札
予がおさなかりし時、宝暦の末までは、江戸の大路の道つくらるる時は、道奉行より札をたて、此頃は道奉行というもの
あり、今は御普請方あり
御用之外車不可通と書り。しかるに予がすむ所は牛込中御徒町なりしかば、こと所はしらねど、御箪笥町より横寺町にのぼる坂に札たてて、御用之外車留とありしを、おさな心にも異なる事と思いしが、今はいづ方にても車留とのみ書り。(後略)

車留 車止。牛車や荷車などの通行を差し止めること。

 つまり、大田南畝氏は牛込中御徒町(現在は中町)に住んでいたのです。
 では住所は? 永井荷風氏の大正14年5月の『断腸亭日乗』によれば……

5月22日。午後牛込仲町辺を歩む。大田南畝が旧居の光景を想像せむとてなり。南畝が家は仲御徒町にて東南は道路、北鄰は北町なりしとの事より推察するに、現時仲町と袋町との角に巡査派出所の立てるあたりなるべし。
中町37・38と36番地

 袋町派出所は昭和5年の地図『牛込区全図』(上図)では▼と書いてあります。牛込警察署が描いた「牛込警察署の歩み」(1976年)の付図「牛込神楽坂警察署管内全図」(原図は昭和7年、下図)について、袋町派出所は土井邸(上図)にかかるように建っていたようです。

牛込神楽坂警察署管内全図


 さらに新宿区立新宿歴史博物館の『「蜀山人」大田南畝と江戸のまち』(2011年)では表としてはっきり書いています。

No名称種別坪数住所現在地期間備考
息偃館借地200坪牛込
中御徒町
新宿区
中町37・38
寛延2年(1749)~? 
借地210坪牛込
中御徒町
新宿区
中町36
?~文化元年(1804)書斎「巴人亭」
遷喬楼買得93坪小日向
金剛寺坂上
文京区
春日2-16
文化元年(1804)
~同6年(1809)
年賦で購入。
2階建て。
 拝領139坪余牛込
若松町
新宿区
大久保
文化6年(1809)
~同9年(1812)
 
緇林楼拝領150坪余駿河台
淡路坂上
千代田区神田
駿河台4-6
文化9年(1812)~
文政6年(1823)
大久保と交換

 赤は中町36で、橙は中町37・38です。

大田南畝の地図

2.蜀山人説話

 岩波書店の「大田南畝(第1次)月報」19「蜀山人伝説を追う(18)」(2000年)では……

 思えば、明治の中頃から大正時代へかけて、蜀山人説話はまさに花ざかりであった。概算であるが、明治に12冊、大正に17冊、合わせて30冊近い書物がかくも繰返して出版されたことに感嘆に似た気持すらおぼえる。もっとも、それらの大半以上が、読物としては巧妙でおもしろく出来上っていても、蜀山人その人の実像とはかけ離れた、根も葉もない虚譚に富む、ほとんどが他愛のないものばかりだといってよいのであるが、しかし、庶民の誰にでも親しまれる蜀山人像を思いきり描いてみせた熱意、それに対しての感銘は深い。言葉は悪いが、蜀山人という名前が商品として通用した時期、もちろん、読者の側にも、出版者の側にも、蜀山人に対する熱烈なる敬募の思いがあったればこその結果であるが、みんなで、蜀山人を伝説の主人公に仕立てあげようとする、強烈な時代風潮が脈々としてあったとすべきである。
 実像とは別に、その生涯が伝説と説話で彩られた人物に、西行と芭蕉がある。「撰集抄」「西行物語」「芭蕉翁行脚物語」「蕉門頭陀物語」などは西行と芭蕉の伝説面を流布する大きな役目を果してきた。一休禅師と會呂利新左衛門もまたそうで、「一休諸国物語」「一休ばなし」「會呂利咄」などの書物が長い間多くの人びとに親しまれた。蜀山人を含めた、日本文学史上の大人物たちが、私たちの心の中に身近な姿で生き続けてきたのは、麗わしくもまた心強い伝統だというてよい。
 それにしても、こんなにまでもてはやされた蜀山人説話のあまりにも著しい衰退ぶりはどうであろう。逸話、風聞、伝承、狂歌説話など、虚の蜀山人像を形成してきたもろもろの要素一切を含め、本稿でそれを蜀山人伝説と総称してきたが、まさに、いま蜀山伝説は滅びんとしているといって過言でない。虚の蜀山人像を支持してきた土壌がもはや崩壊せんとしている。私たちが少年時代に愛読した少年講談の「蜀山人」を掉尾に、昭和の後半に蜀山人伝説が全く影をひそめてしまったのは淋しい限りだといわねばならぬのである。
 今後、蜀山人の実像は「大田南畝全集」の完結によってますますその全容が明らかにされて行くにちがいない。それに呼応して、先人たちがはぐくんで来た虚の蜀山人像もまた幾久しく生き残って行ってほしいことが願われる。そのためには、少年講談の「蜀山人」が岩波文庫に編入され、知識人層に新たに数多い読者を獲得するといったくらいの思い切った荒療治が必要なのではあるまいか。
掉尾 ちょうび。とうび。最後に来て勢いの盛んになること。単に「最後に」。

 それでは「虚構」をいつくかあげてみます。

      文武の精励
1年執政方より文武の両道を励むべしと、厳重なる法令達せられたれば
    世の中にかほどうるさきものは莫し
      文武というてよるも寝られず
半仙散人編「ねぼけ先生」福井春芳堂、明治35年

 当時、大田南畝は自作ではないときっぱり否定し、「大田南畝全集 第16巻」(1988年)の「一話一言」では「是大田ノ戯歌ニアラズ偽作也。大田ノ戯歌ニ時ヲ誹リタル歌ナシ。落書体ヲ詠シハナシ。南畝自記」と書かれています。一応「読み人知らず」に入れておきます。
 さらに浜田義一郎等編「大田南畝全集 第11巻」(岩波書店、1988年)「半日閑話」という随筆についても……

『半日閑話』について

日野龍夫

『半日閑話』の諸本と本巻の底本
『半日閑話』は、大部な書物でありながら今日伝存する写本が多く、大田南畝の著述として盛んに読まれていたことがうかがわれる。しかしその内容は、真正の南畝の著述とは到底いえない、蕪雑を極めたものである。すなわち南畝ならぬ何者かが、いつの頃にか、真正の南畝の著述である『街談録』全22冊という随筆をバラバラに解体して前後の順序を乱し、それに南畝の他の著述や別人の文章を何の脈絡もなく混入して、まさにデッチ上げた書物というのが、本書の正体である。
『半日閑話』という書名も、その何者かの命ずるところと考えられるが、何者かが単数なのか複数なのか、いつ、どういう意図で本書を作り上げたのかなど、まったく分らない。また『街談録』は一部を除いて所在が知られないため、本書中、どの部分が『街談録』に相当するのかも、明確には定めがたい。
蕪雑 ぶざつ。ごたごたしていて、筋道が立っていない。

 つまり『半日閑話』の複数部分は「デッチ上げた書物」と称しています。

      山手閑居記
わが庵は松原遠く海近くと詠みけん。武蔵野の広小路にむすべる、芝のはてにもあらず、千早振る神田浅草の賑かならぬも、よしや足引の山の手になん住めりける、春は桃園の花に迷う外山の霞たたぬ日もなく、夏は江戸川の蛍を見る、目白の瀧の音たへず、秋は高雄のかりがねに、民の貢の未進を憐れみ、冬は富士を根こぎにして、我が鉢の木の雪とながむ、四季折々の美景をいはば……
半仙散人編「ねぼけ先生」福井春芳堂、明治35年

 これも浜田義一郎等編「大田南畝全集」(岩波書店、昭和60年から平成12年)には載っていません。
 次にいろいろな文の形ででていますが、本当はただの噺です。まず、新演芸会編の「滑稽十八番」(堀田航盛館、大正3年)です。

 蜀山人は駕籠が嫌いですから、出羽様から、足軽が一人付いて宅まで送り届ける。
 蜀山人はのん気のもので、大層酔払いながら、ブラブラヒョロヒョロやって来る。足軽も後から付いて参りましたが、丁度堀江町の新道を通ると、ある家の表で、女中が格子の掃除をしていて、汚い水を向こう見ずに往来へ撒いたのが、通り合せた蜀山人には掛らなかつたが、供をして来た足軽の頭がら着物へ、ぐしゃと掛った。いやはや足軽は怒るまいことか。
「不埒の奴だ」と刀の柄へ手を掛けた。その当時は武士が刀の柄へ手を掛けたかと思うと、町人の首は向うへ飛んでいるという位で、こういう事は度々ありますから、さあ女中は驚いて蒼白になって、家の中に逃げ込む。
 家の中からは40格好の婦人が恐る恐る出て来て参りまして、「誠に飛んだことを致しましてどうも相済みません、万望御勘なさつて下さいまし」と詫びますと、足軽は「これこれ勘弁しろもないものだ、見ろこの通り、頭から着物まで、ぐしょ濡れだ。不埒の奴だ。只今の女をここへ出せ。」婦人「ではございませうが、万望そこを一つ御勘弁下さいませ……お前ここへきてお詫びなさい」といわれて女中はぶるぶる慌いながらそこへ出まして両手をつかえ、「どうか勘弁下さいまし」という声さえ、口の内にて、歯の根も合はず、ぶるぶる振えております。
 それこも知らず行過ぎたる蜀山人、跡をふり返って、づかづかと帰って来て蜀山「どうしたどうした」足軽「先生只今かくかくの次第で」蜀山「まあ、そんなに怒っては仕方がない、勘弁さっしゃい、これこれ御女中、お前は何という名だ」女中「はい、お軽と申します」蜀山「お軽か、うむ、おかるにしちぁちょっと受け取り難いが、まあまあ心配なさるな、拙者がお詫びをして上げるから」と持っていた扇を取り出し、ひらりと開いて、腰の墨斗の筆を染めて、サラサラと書いて、足軽の前へ差出し、蜀山「これで勘弁さっしゃい」言われて足軽も怒つてはいたものの、是非なく、先生が何んなことを書いたか取上げて見ると、
    行きかかる﹅﹅、来かかる﹅﹅、足に水かかる﹅﹅
      足軽いかる﹅﹅、おかるこわがる﹅﹅
 取り上げて見て足軽も吹き出し、足軽「先生有難うございます、これを頂戴したうございます」蜀山「あげるから勘弁さっしゃい」足軽「勘弁も何もありません、どうも先生ありがとございます。」そこで家の者を始め、女中のお軽も、大層喜んで厚くお礼を申し述べたと、いうことです。

 これは一瀬幸三氏主宰の「新宿郷土研究」第5号(新宿郷土会、昭和41年)「大田南畝と牛込」の1部分でもあります。

 赤城明神の境内の掛茶屋に赤城小町という評判のお軽という娘がいた。ある日誤って足軽の足もとに打ち水をかけてしまった、足軽は怒ってお軽を打擲におよぼうとした時に、参拝を終えて通りかかった、蜀山人は、「待たれい」と大声で、
  差しかかる来かかる足へ水かかる
       あしがる怒るおかる恐がる
と詠んだめで、見物人の中からどっと笑声が起った。足軽は強そうな武士と蜀山人を見たのか、そのまま逃げるように消えるのであった。
 この……狂歌は、寡聞にして知らないが、蜀山人の狂歌集の中にもない。しかし、本居宣長の有名な「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」の歌が本居宣長の歌集におさめられていないと同じように即興のために他の記録に遺されたものであろう。いずれにしてもこんな文芸は俗説で意味がないと、いわれるかも知れないが、牛込の住人にとっては拾てがたい挿話である。

打擲 ちょうちゃく。打ちたたく。なぐる。

 現実に起こった事実ではなく、落語だったんですね。実際の逸話ではなく、面白い咄でした。
 次は飄禅散人氏の「滑稽洒落 三博士」(盛陽堂、明治39年)です。

 ある時のことでありました。蜀山人が、外出して、牛込御門の辺を通りましたるに、おりふし、向こうから、一人の、いかめしき武士が来て、蜀山に向かい、「浄溜璃坂は、いずこにてごきるか」と問われた。
 蜀山は、道を尋ねられて、「はい浄溜璃坂ですか。それは、これこれ、こう行けばよろしいのです」と指さし示して、別れたところ、この武士の頭が、撥髪にて、その風体が、いかにも可笑しきさまであったれば、蜀山は、別れる途端に、クスクスと笑われた。
 この武士は、この笑い声を聞いて、大にいきどおり、「その方なにものであるか、人の風体を笑うこと、はなはだ無礼である。そのままには、なしおかれまい」とだけだかに言われた。
 蜀山は、ギョッとして、「これは、はなはだ申し訳もないことをいたしました。拙者ことは、狂歌師にてござる。なにぶん、御寛大の処置にて、御免し下され」とわびられた。
 かのいかめしき武士は、これを聞いて、「ははあ、狂歌師にてあるか、これは面白いことである。さらば、今このところにて狂歌一首詠まれよ。それにて、無礼を免すである」と言う。
 蜀山は、狂歌の註文と聞いて、即座に、
  はち鬢で浄溜璃坂をたずぬるは
      三味線堀の人にやあるらん
とかくなん詠まれたので、いかめしき武士も、思わずくすくすと笑って、そのまま行かれたといいますが、狂歌の徳ならではこの危難は、なかなかに、免れぬことでありまする。

撥鬢 ばちびん。鬢の形が三味線のバチの形になっているもの。
三味線堀 江戸下谷、不忍池から東南方に流れ、隅田川に合流していた忍川の下流の通称。現在の台東区小島町二丁目のあたり。大田南畝の純正の狂歌もあり……
   三階に 三味線堀を 三下り 二上り見れど あきたらぬ景

 西郊散史氏の「頓智三名人:一休和尚・曽呂利・蜀山人」(盛陽堂、大正13年)では……

   ◎蜀山の赤面
 蜀山人は、常に狂歌三昧で、浮世を茶にして渡ったので、とかくに家政は困難で、ややとすれば、借金には、苦しんだことである。
 ここに、太田雲平というものがあったが、蜀山人は、このものから、金を借りたところ、急に返済ができぬので、大分に困却せられておった。
 ある時のことであったが、蜀山人は、牛込赤城下を通られますと、いやはや、廻るの神の引き合わせ、このところにて、ひたりと太田雲平に、出会わなれた。雲平は、これは、よい所で遭ったと、たちまち声をかけて、
「おいおい、蜀山先生、例の一件は。」
と言いかけましたので、蜀山は、もうたまらずなりましたので、
  やれ待て云はれてと顔も赤城下
      とんだところで太田雲平
と即吟したので、さすがの債鬼も、思わず、くすくすと笑ってそのまま別れたということでありますが、狂歌の徳は、いよいよ、驚きに感ずることでありまする。

3.狂歌

 実際の狂歌を一つ挙げてみます。沓掛良彦「大田南畝」(ミネルヴァ書房、平成19年)からの引用です。

     女郎花
  をみなへし口もさが野にたつた今僧正さんが落ちなさんした
 こいつはおもしろい。ただし『古今集』の六歌仙の一人で、洒脱を絵に描いたような人柄だった伝えられる僧正遍正の作「名にめでてをれるはかりぞをみなえしわれ落ちにきと人にかたるな」という歌を知っていればの話だが。(無論、天明時代の江戸人はそれくらいは心得ており、南畝もそれを前提にしてこの一首を詠んだのである。)遍正の歌だが、「さが野にて馬よりおちてよめる」という序注があって、落馬の意を掛けるという解釈もあるようだが、そう読んではおもしろくない。この色好みの坊主の歌の意は、「『女郎をみなへ』というから、その名に惹かれて手折ってみた(花を手折るとは言うまでもなく女性と臥所を共にすることだ)だけのことじゃ、わしが「落ちた」つまりは女色に迷って堕落したなぞと言うてくれるなよ」、ということだろう。「秋の野になまめきたてる女郎花あなかしがまし花もひととき」というような歌を読んだ洒脱な坊主ならではつやめいたユーモアたっぷりの歌である。南畝はそれを踏まえ、「女郎」の口から遊女ことばを使った滑稽な狂歌に仕立て上げたのである。従ってこの一首の意は、「女郎たちが口さがないことに噂するには、たった今僧正さんが嵯峨野で馬から落ちなさったよ」ということだが、「落ちなさんした」という表現の裏には、「たった今僧正の身でありながら、あの坊さんが、女色に負けてしまいなすったよ」という揶揄が込められていることは言うまでもない。これは「あなかしがまし花もひととき」とやられた「女郎」花からのみごとな逆襲となっていて、そこがいわばみそ﹅﹅である。「落ちなさんした」という俗な遊女ことばが、なんともいえぬおかしさを誘う作だといえよう。この一首は確かに傑作だが、読者の側が古今集を知悉していることを前提とした作だから、そのあたりが現代の読者の鑑賞を妨げるものとなっているかもしれない。ちなみに、遊女ことばを面白く使った例としては、かの塙保己一(狂名早鞆はやとも和布刈めかり)の詠んだ一首「おひらんにさういひんすよ過ぎんすよ酔なんしたらただおきんせん」という作もある。
その他の「傑作」
さてここまで南畝の傑作に数えられる狂歌を何首か眺めてきたが、読者の多くはこれを読んで、「狂歌が今日の文学の尺度で研究鑑賞に堪えるものではないことは事実といわなければなるまい」という浜田義一郎の言葉を改めて確認、実感したことであろう。なんだ、さしておもしろくもないではないか、こんな狂歌のどこがおもしろくて天明時代の江戸人は南畝を熱狂的にもてはやしたのかわからん、というのが正直な印象であろう。とすれば筆者も半ばもそれに同意するしかない。注釈や解説なしの手放しで笑えなければ、それはもう滑稽文学としては死んだ文学、化石化した作品でしかない。先に述べたように、残念ながら、天明狂歌の多くは、狂詩と同様もはや死んだ文学であって、ここまで管見してきた南畝の狂歌にしても、一読ただちにわれわれの心を惹いて哄笑を引き出す作だとは言いかねる。

4.狂詩

 漢文の詩も大田南畝にとっては得意でした。しかし、私を含めて一般の人は手も足もでません。狂歌よりも遥かに狂詩は難しいのです。
 ここでは「辞世の句」だけをまとめて、一部ChatGPTを使っています。

◆文政六年、南畝絶筆(玉林晴朗著の『蜀
山人の研究』所収

  即時
宿雨收朝気 新晴蕩日華,露乾紅躑躅 風動紫藤花 泉石達愈病 烟霞奈抱痾 閑居無事意 自似厳阿

翻訳は
 夜のあいだ降っていた雨が上がり、朝の空気が清くあらわれた
 晴れたばかりの空に、日の光がゆったりと満ちる
 露が乾いて、赤いツツジが色鮮やかに見える
 風が吹き、紫の藤の花をやさしく揺らしている
 泉や岩の景色を眺めていると、病気の気がいくらか和らぐ
 けれど、煙る霞や雲の景色を眺めても、抱えた持病だけはどうにもならない
 静かな暮らしにあって、気を煩わせるような用事は何もない
 自分はまるで崖のふちで横になっているようだ

宿雨 しゅくう。連日降りつづく雨。ながあめ
 しゅう、あがり。雨があがる
 とう。揺れ動く。ゆらゆら動かす。酒色などにおぼれる。締まりがない。豊かに広がっている。洗い流す。すっかり無くする。
日華 太陽
躑躅 ツツジ
紫藤花 しとうか。ふじの花
泉石 せんせき。泉と岩石。泉水と庭石
 障りなく通じる。道がとおる。目的・目標とするところに行きつく。物事によく通じる。じょうずにこなす。品物などを届ける。
愈病 びょうゆ。病気が治る、回復する
烟霞 えんか。煙とかすみがたなびく。景色として山水が美しい。
 いかん。いかんせん。なんぞ。なんすれぞ。たいと通じ、忍び耐える
抱痾 ほうあ。病気持ち。長年患っていて治りにくい病気、慢性疾患、持病
閑居 世俗を逃れて心静かに暮らす。その住まい。暇。何もしないでぶらぶらしている。
 にる。かたどる。それらしくみえる。
 横になる。寝そべる
厳阿 厳はがけ下・崖のふち。阿は崖や丘の傾斜地。1376年(南北朝時代)ごん上人は「亀井山 円福寺」(時宗)を開山し、住居した。

  又
酔世将夢死 七十五居諸 有酒市脯近 盤飱比目魚

酔ったように生きて、夢のように死んでいく
日月を数えるともう75歳になった。
酒があり、干し肉を売っている店も近い
皿には雄雌2匹が寄り添って泳ぐヒラメの料理もある。
即事 そくじ。その場で目にする事柄。
 はた。まさに~(せ)んとす
居諸 きょしょ。日月。光陰。句末の“詠嘆”を表す語
市脯 しほ。乾肉。
盤飱 ばんさん。ばんせん。盤に盛られた食べ物、日常の食事。盤は浅い皿。飱は夕食
比目魚 ひらめ。ヒラメ・カレイの異名。一対で一つの存在として生きる神秘的な魚

うかりつる ながめもはれて おのが名の 春もかすみて ともにゆくらん
おぼつかな 藤さく山の よぶこ鳥
ほとゝぎす 鳴つるかた身 はつ鰹 春と夏との 入相のかね
                     七十五翁 蜀山人

1句目の翻訳は

 つらく思えていた物思いも晴れてしまった。あなたの評判も、そして春の霞も、ともに私から遠ざかっていくのだろう

2句目の翻訳は

 藤の花が咲く山で鳴く呼子鳥(ホトトギス)はどうしているのか、はっきりせず気がかりだ

3句目の翻訳は

 ホトトギスの鳴き声だけが残した証拠になる。ちょうど初鰹が出回る時期になり、入相の鐘(夕暮れの鐘)のように終わりゆく春と来る夏とが入り混じる季節になった
うかりつる 期待外れや幻滅の気持ち。思っていたのと違って残念。(期待に反して)劣っている。(心惹かれていたのに)がっかりだ。「うかり」は「うかる」で、「(期待に)浮かる」から「(期待に反して)心もとない」「がっかりする」「劣る」。「つ」は「完了の助動詞」
ながめ 「眺め」は景色・見ること、物思い、「長め」はやや長いこと、「長雨(ながあめ)」は長く続く雨。「物思いが晴れる(気が晴れる)」と同時に「空が晴れる」の意味。
おのが名 自分の名前。あなた(=想い人)の評判・名声。
ゆくらむ「行く+(助動詞)。原因や理由を推量する。「(今頃)行っているだろう」「なぜ(今頃)行っているのだろう」。
おぼつかな おぼつかなしの語幹。はっきりしない、ぼんやりしている、頼りない、気がかりだ、不安だ、待ち遠しい。「呼子鳥」「おぼつかなし」は古典文学、特に和歌や俳句で組み合わせて使う言葉。恋しい相手のことを思って(呼子鳥)、確かめられず心もとない気持ちになる(おぼつかなし)
よぶこ鳥 よぶどりとは「カッコウ目のカッコウ(郭公)やホトトギス(時鳥)ツツドリ(筒鳥)」で、季語は春。古今和歌集「をちこちのたづきもしらぬ山なかにおぼつかなくもよぶこどりかな」(あっちに行ったらいいのか、それともこっちに行けばいいのか。まるで見当がつかない山の中で、心細げに鳴く呼子鳥)
鳴つるかた身 百人一首の和歌「ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる」から。「鳴きつる方」は「鳴く方角」。「かたみ」は「形見」「(姿は見えないが)鳴き声だけが残した証」。
入相 日の暮れ方。入相のかねは「夕暮れ時(日没頃)に寺で勤行ごんぎょうの合図としてつく鐘のこと」
大田南畝 辞世の句

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