紀の善

1 「紀の善」は「紀ノ国屋善兵衛」から

 新宿区民俗調査会『新宿区の民俗(5)牛込地区篇』(新宿歴史博物館、平成13年)は……

『紀の善』の創業は幕末、創業者は紀州出身の紀ノ国屋善兵衛と伝えられる。もともとは、人入れ稼業といって、大名や旗本の邸に雇い人を周旋する場所であったらしい。


 紀の善の女将の冨田冨江氏の「ここは牛込、神楽坂」第16号(平成11年夏)では……

 うちの祖先は、紀国屋善兵衛といって、紀州の吉宗が江戸に出てくるとき一緒についてきたんです。いまの職安みたいな仕事で、若い男の人を60人くらい連れて。だから「紀の善」なんですけど、その頃の話はこれからまたお話しいたしますね。

紀州の吉宗…… 紀州の徳川吉宗が江戸城に入ったのは33歳で、1716年(享保元年)です。

 続いて、同じく冨田氏の「ここは牛込、神楽坂」第17号(平成12年春)で……

 紀州の吉宗が、江戸に出てくるとき、職安のような仕事をしていたうちの祖先の紀国屋善兵衛が、若い男たちを何十人も連れて一緒についてきた話は前回いたしましたが、当時は、江戸の切絵図にも載っているように、神楽坂の上り口の左角に、旗本屋敷直属の牡丹屋敷というのがありました。そこで牡丹を栽培していたといわれていますが、栽培していたのは主に薬草で、それを江戸城の本丸に届けていたのだとか。
 紀の善は、その牡丹屋敷の専属で、お屋敷から使いがきて、きょうは30人頼むとか、きょうは雨だから5人でいいとかいってくると、それに合わせて若い者を出して、薬草の手入れをやっていたそうです。浅草では、幡随院長兵衛がそういうのを仕切っていましたが、神楽坂では代々紀の善がやってきたのだとか。それで、紀の善は、親分以下、若い者みんなに、桜と蝶の彫り物……そう、入れ墨をさせていたんです。絵柄を牡丹にしてはお屋敷に失礼にあたるからと、桜と蝶にしたとかで。
 その後、牡丹屋敷は町屋になりますが、ずっと牡丹屋敷と呼ばれていたようです。で、紀の善はご維新後、寿司屋に転向しましたが、そのときはこの絵柄から、花蝶寿司といっていました。(中略)


思わぬことからわかった紀の善にまつわる幕末の話


 ところで、これはまた聞きですが、弟が、八王子でお習字の先生をしていた、あるひげの長いおじいさんから、その方の祖父にあたる人が、紀の善に助けられたという話を聞いてきたんです。そのお習字の先生は時々用事で厚生省に来ていたんですが、弟は、生前、厚生省の役人をしていて…そう、弟は寿司屋がきらいで役人になったんですが、たまたま紀の善の者だとわかって、その人が話をしてくれたわけです。
 なんでも、多摩の方にいたその人のお祖父さんが、若いとき、新撰組の近藤に、百姓でも首の一つもとればたちまち金持ちになれるなどと誘われて、仲間と一緒に上野の彰義隊に入れられた。でも戦いの途中で、もうだめだとわかって、仲間と多摩へ帰ろうと、夜更けに本郷の方から逃げてきたら、官軍に見つかって撃たれそうになって、紀の善に飛び込んできたんですね。
 そのとき紀の善では、50人くらいの若いもんが裸で寝ていたので、親分は2人を裸にしてその間にかくまってやった。で、追っ手がやってきたとき、親方は「みんな寝てるから一人っつ布団をはがして見てみろ、みんな桜と蝶の刺青をしているから」って。「ただ、子分は明日仕事があるから、せっかく寝ているところを起こして、いなかったらどうしてくれるんだ」といったのね。そうしたら、追っ手は3人くらいの入れ墨を調べて、もう、いいと帰っちゃった。で、親方はその二人にご飯を食べさせ、お湯にいれて、おむすびを持たせて多摩へ落としてやった。
 ひげのおじいさんは、そのとき助けられた人の孫で、よく話を聞かされていたんですね。うちの弟は、そのことを聞いてきた日は、「ぼく、お陰で株が上がっちゃった」と興奮してましたよ。
 そこで、八王子に行ってその人をさがそうということになったんですが、そのときはもう亡くなっていたんです。

幡随院長兵衛 ばんずいいんちょうべえ。江戸前期,江戸で名のあったまちやっこ(はでな服装で江戸市中を横行した町人出身の侠客。侠客とは義侠心に富み、弱きを助け強きをくじくことを信条とする人物)。江戸花川戸に住み、口入れを稼業としていた。町奴の頭領として、旗本奴の首領水野十郎左衛門と争い、水野邸に招かれ、殺害された。

 渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007年)では……

 文久・慶応年間(1861-1868)「紀ノ善」創業。口入業

口入業 職業周旋業者のこと。

 奥田優曇華氏の「食行脚 東京の巻」(協文館、大正14年)では……。なお、「食行脚 東京の巻」については後で詳しく説明します。

 創業の幕を開けたのはおおよそ70余年前。

大正14年(1925)から70余年前というと、1846-55年。これでは弘化(1846〜1848)、嘉永(1848〜1855)、安政(1855)になります。

2 寿司の開店

 新宿区民俗調査会『新宿区の民俗(5)牛込地区篇』(新宿歴史博物館、平成13年)は……

「料理屋として営業するようになったのは明治維新後で、当初は寿司と料理を出す「紀の善花蝶寿司」といった。今和次郎『新版大東京案内』(昭和4年 中央公論社)に、当店は「なかなかの老舗で芸者も入る」と紹介されている。

こん 和次わじろう 今氏は早稲田大学理工学部建築学科助手から大正9年(1920年)には教授になった民家研究家、民俗学研究者。「考現学」を提唱し、服装研究家としても著名。生年は明治21年7月10日。没年は昭和48年10月27日。85歳。
なかなかの老舗で芸者も入る 実際に『新版大東京案内』(119頁)では「日本料理では芸者の入る末よし、吉新、吉熊、橋本、常盤は指折りの家。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金など、なかなかの老舗で芸者も入る。そうでないのは鳥料理の川鉄、家族づれの客にはうってつけの心持のいい家。」

 広瀬光太郎編「東京飲食店独案内」(広瀬光太郎、明治23年)では……

広瀬光太郎編「東京飲食店独案内」(広瀬光太郎、明治23年)

 昭和23年では「神楽町2丁目 花ずし 紀乃善」となっています。現在は神楽坂1丁目です。どうしてこんなことがおこったの?
 実は明治初期の町域は今と異なり、1丁目は神楽坂通りの南側だけでした。
明治20年には北側と南側の両方に1丁目は出現します。紀の善が今と同じ場所だったとしても「2丁目」は納得できます。町域が改まったのは明治20年なので、明治23年の「東京飲食店独案内」は古い情報で出版されたと考えてもいいでしょう。

M18とM20 「地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編」から

食行脚 東京の巻」(協文館、大正14年)に記事があり、著者の奥田優曇華氏は「見たこと聞いたことを、書き綴ってみた」と記しています。なお、適宜新字・新かな等に修正しました。

食行脚 東京の巻 紀の善

 紀の善(神楽坂)
 神楽坂下の紀の善は、花蝶寿司でその名を知られている。

 江戸時代、牛込の牡丹屋敷と言われた旗本のお屋敷から、格別のひいきを受けていた紀の善は、その恩顧を記念するため、牡丹の花に蝶をちなんで、家業の寿司に花蝶と名付けた。

 創業の幕を開けたのはおおよそ70余年前で、原料吟味はそもそもの振出しから、この店の守本尊とせられていた。むべなるかな後年、花蝶寿司の評判を得るようになり、宮家や諸官庁の御用のほか、古いお得意では本郷の前田侯(=侯爵)、小石川の細川侯、牛込の酒井子(=子爵)をはじめ、お屋敷の注文が年ごとに増えてきだした。

 一人前50銭、80銭、1円に分かれ、階下は食卓、2階は小座敷が4室、客のお望みとあれば、これも神楽坂名物のが「こんばんわ…」。(店、牛込区神楽町1-12。電車、牛込見附下車。電話、牛込1343番)

 さお。三味線の糸を張る部分(ギターではネック)。紫檀棹とは、紫檀の木で作った三味線の棹。転じて、三味線、芸者。

3 戦前の寿司・紀の善

 新宿区民俗調査会『新宿区の民俗(5)牛込地区篇』(新宿歴史博物館、平成13年)は……

明治の頃の当店は、三階建ての店構えであった。先先代(明治27年生まれ)時代、神楽坂は階段状だったという。先代(明治45年生まれ)の頃はすでに坂だった。
 寿司を出していた頃の当店は、たとえ一人で来たお客さんでも座敷に通し、個別に食事を供する店であった。現在の寿司屋のようにカウンターで握るのではなく、板場という調理場があり、職人は座って寿司を握った。炊いたハマグリにたれをつけた寿司種は当店で工夫したもので、多くの人に好まれた。戦前までは当店で結婚式を行う人もあり、そのような婚礼用の料理には大根で鶴や亀のかざりを作るなど、職人もさまざまな工夫をこらしたという。また得意先には早稲田の職員や宮家などがあり、早稲田大学の催事のときには千食二千食もの料理を用意した。宮内庁に納める弁当は事前の検査がとても厳しく、当時のおかみさんは忙しさと緊張で倒れてしまったことがあったという。
 第二次世界大戦で全てが焼け、板前も散り散りになってしまった。残った女性たちでお汁粉などを作って売ってみたことが、今日の『甘味紀の善』のはじまりである。

 赤井儀平氏の『神楽坂界隈の変遷』「古老談話・あれこれ」(新宿区立図書館、昭和45年)では……

 昔は早稲田の運動会は向島でやったものです。その時は学生達は思い思いのふん裝で会場へ乗り込むのですが、47士もいれば児島高徳を気取って鎧の上から蓑を着て来る学生もいました。弁当は学校から出るんですが、「紀の善」で一手にひき受けていたらしく、何でも3,000人分くらいだそうで洗い方 煮方 炊き方 詰め方と分業で手分けをして徹夜で戦争のような騒ぎでした。こんな騒ぎは大正の末頃まで続きました。今では近くにも大きな大学が沢山できましたが、昔の早大と神楽坂の様なつながりを持った学校は一つもありません。

 明治維新後は「紀の善・花蝶寿司」。それまで牛込壕端沿いに住んでいたのですが、大地主升本喜兵衛に薦められ、現在の場所に移りました。宮内省の御用達になると「御膳寿司紀の善」に変更しています。


 冨田冨江氏の「ここは牛込、神楽坂」第16号(平成11年夏)では……

 そう、戦前うちはお寿司屋だったの。それも宮内省の御用で、立ち食い寿司でなくて御用御膳寿司といっていた。

 冨田冨江氏の「ここは牛込、神楽坂」第17号(平成12年春)では……

 紀の善はご維新後、寿司屋に転向しましたが、そのときはこの絵柄から、花蝶寿司といっていました。
 いまの場所に移ってきたのはそのときで、この界隈の大地主の升本さんのご先祖が、「紀の善、お濠っぱたじゃ商売にならないから、ここへ来い」と、おっしやってくださって、お濠端から神楽坂通りに出たのだそうです。

 また、新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」の「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」(昭和45年)によれば、関東大震災前の当時、大正前半に「神楽小路」のことを「紀の善横丁」と呼んだそうです。

紀の善(古老の記憶による)

 明治41年1月、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎など七人は神楽坂の「紀の善」2階で新詩社の脱退を決めました。かわって『パンの会』を作ります。これは長田幹彦氏の「わが青春の記」(初発は『中央公論』昭和11年。日本図書センター『長田幹彦全集 別巻』1998年)に書いてあります。

しんしや脱退事件は誰れが主謀者であったか、今では記憶がはっきりしていない。とにかく皆鬱勃うつぼつとしていたのであるから、一人ひとりが火をつければ忽ち燃え上るにきまっている。近頃流行の一触即発という奴である。何んでも神楽坂のしたの紀之善という鮨屋の二階へ集あつまったのが、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、深井天川、秋庭俊彦、秀雄、僕この七人で、新詩社脱退の議は忽ちそこで一決してしまった。その理由は、とにかく与謝野かん氏に対する不信任で、折角われわれが努力していい詩をつくつても皆与謝野寛氏に吸収されてしまう。新詩社というような団体を結成していては、成長の見込みがない。だからここで分裂して自由というようなことだったと思う。
 その翌晩僕の家へ又皆が集まって(後略)

新詩社 明治32(1899)年、与謝野寛(鉄幹)が設立した詩歌結社。翌年、機関誌「明星」を創刊、多くの新人を育てましたが、41年に解体。
主謀者 中心になって陰謀・悪事を企てる人
鬱勃 内にこもっていた意気が高まって外にあふれ出ようとする様子。意気が盛んな様子
一触即発 ちょっとしたきっかけで大事件に発展する危険な状態

 また出口競氏が書いた『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)では……

紀の善の店さきにはかん絆纒はんを着た下足番がしょうに腰かけてみちく人を眺めている、上框あがりかまちには山の手式の書生下駄が四五そく珠数じゅずつなぎにされていて、拭きこんだいたに梯子段が見える。田舎者でとおった早稲田の学生も此処のやすけが恋しくなればず江戸っ子のとしたもの

印絆纒 しるしばんてん。襟や背などに屋号・家紋などを染め抜いた半纏
床几 しょうぎ。細長い板に脚を付けた簡単な腰掛け
上框 うわがまち。戸・障子などの建具の上辺の横木
書生下駄 しょせいげた。たかげたとも。10センチ以上視線が高くなります
珠数繋 数珠(じゅず)は穴が貫通した多くの珠に糸の束を通し輪にした法具。じゅずつなぎは、糸でつないだ数珠玉のように、多くの人や物をひとつなぎにすること
板間 いたま。板敷の部屋。板の間。
やすけ 「義経千本桜」に登場する鮨屋の名はすけでした。以来、鮨の異称として使いました。紀の善は戦前は寿司屋でした
 それぞれの部分。「これで君も江戸っ子だね」といったところでしょうか

 西村和夫氏の『雑学神楽坂』(角川学芸出版、平成22年)では……

 大正14年(1925)、25歳以上の男子全てに選挙権が与えられる「普通選挙法」と引き換えに、多くの反対を押し切って「治安維持法」が制定された。そして不景気の嵐が吹き荒れる昭和3年、「治安維持法」による共産党員の一斉検挙が始まった。と見るや、「治安維持法」は緊急勅令で世界にまれな悪法に改正された。
 政府に反対する言動は全て取り締まりの対象にされ、第二次世界大戦が終わるまで、わが国の思想統制に絶大な力を発揮することになった。国民は政府のいうことに何ひとつ反対できなくなってしまったのである。
 この時から神楽坂にも私服響官が歩く姿が見られるようになった。天皇機関説の美濃部達吉は寿司屋紀の善を愛して度々来店した。達吉には四六時中警察の尾行がついて、店を出るとすぐあとに響官が来て「誰と会っていた」「何を話していた」など根掘り葉掘り聞いて帰った。
 昭和11年(1936)の冬は大雪の多い年だった。2月25日の夜半から東京は大雪に見舞われた。26日の明け方の3時、若い将校に率いられ武装した近衛歩兵3連隊と歩兵第1・第2連隊の兵約1400が総理大臣官邸、大蔵大臣官邸、警視庁、新聞社などを襲い、議事堂周辺の官庁街を全て占拠するという事件が起きた。2・26事件である。
 わずか4日で終了したクーデターであったが、市内には戒厳令が施行され市民は恐怖の底にたたきこまれ、政治は完全にストップした。神楽坂が鎮圧部隊の駐屯地にされた時、紀の善が鎮圧部隊の司令部になった。

鎮圧部隊の司令部 戒厳司令部は軍人会館(現九段会館)なので別で、あくまでも「鎮圧部隊」の司令部でしょう。

 昭和12年、都市製図社『火災保険特殊地図』を見ると、地図上で紀の善は神楽坂通りに直接向かいあってはいないとわかります。

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和12年

4 戦後の甘味処・紀の善

 昭和27年、都市製図社『火災保険特殊地図』では…… これで神楽坂通りに直接出てきました。

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

 和風喫茶店 第2(建築写真文庫、第2期第32)彰国社、昭和31年では……

 和風喫茶店は「おしるこや」の名によって日本的な甘味の飲食物をとり扱う店であるが、最近は和菓子とそのほかに特別の甘味飲料を考案してその店独特の甘味と風味をもって近代人の甘党客の味覚に触れようとしている。和風喫茶としてとり扱う一般的な飲食物の種類はおしるこ・ぜんざい・みつまめ・あんみつ・おはぎ・おだんご・あべかわ・くづもち・おぞうに・いそまき・和菓子つき抹茶などその他各種の和菓子のほかに夏季になると冷たい飲ものをも準備している。

紀の善

紀の善。入口は正面と側面に設け、その入隅部に帖場を配して両入口と客席を見透しできるようになっている。床はフローリング張り、壁は京壁仕上、天井は杉ツキ板の大板張りである。

紀の善(中村武志『神楽坂の今昔』毎日新聞社、昭和46年)
TV「気まぐれ本格派」(昭和52年)第4話 建て替え前の「紀の善」店内

 加賀まりこ氏の「母も私も『紀の善』びいき」(都市出版『東京人』平成9年12月)では……

 神田から越してきたのが小学校の2年のときだから7歳のころ。一時期離れたんだけど、私が40歳のときに父が亡くなって、まあ親孝行だと思って、母と最後は神楽坂で一緒に暮らすことにしたんです。母は神楽坂で評判の美人だったのよ。私、お酒がだめなのであんこが大好きでね。母も甘いものが好きで二人してしょっちゅう出入りしてました。おかげで、学生の時、持ち合わせがないと「すいません。あとで払います」って。なんといっても“栗ぜんざい”が好きね、季節ものだけど。

紀の善(建て替え後の「紀の善」店内)
紀の善 室内

5 「紀の善」の閉店

「令和4年9月30日をもちまして店舗を閉店させて頂きました」。理由は「店主の高齢化や諸般の事情」のため。

紀の善の閉店

 また、ある地元の人は……

 神楽坂下の紀の善が閉店しました。顧客にも商店会にも予告しない突然の発表でした。
 コロナ禍でも売店の行列が途切れたことはなく、店もずっと繁盛していたように見受けられます。シャッターを下ろした時は「設備改修で10月末まで休業」と貼り紙してありました。普通の改修で1カ月も休むことはないので不思議に思われていました。
 貼り紙が「閉店」に切り替わったのは令和4年10月17日頃です。公式ウェブサイトの発表の方が少し早かったようです。もし予告していたら閉店間際に押しかけた客で混乱が起きていたでしょうから、賢明だったとも言えます。
 閉店の理由は当事者しか知りません。ただ地元では2つのことが言われています。
1)高齢の店主に後継者がいなかったこと。
2)紀の善の土地が借地であったこと。東京では借地契約の更新時に「更新料」を求められます。紀の善が旧店舗をビルに立て替えたのは30年ほど前です。推測にすぎませんが、最近の土地価格高騰で更新料が予想を上回った恐れがあります。土地を持たない老舗は、どうしても世の中の変化に弱いのです。
 紀の善の脇の路地である神楽小路には再開発の動きがあります。2020年に解散した「神楽小路親交会」は理由のひとつに「私たちの地域における地上げの影響」をあげていました。これも何か関係しているかも知れません。
 多くの人に長く愛された紀の善は、まぎれもなく神楽坂の顔でした。

 インターネット「てくてく牛込神楽坂」では、紀の善は驚きや感動を起こす場所でした。

2023年3月2日
 何度か神楽坂を訪れていつも閉まっているので、やっと気がつきました。せめて店主の技を何処かに受け継げないのでしょうか。とても悲しいです。いつも繁盛していたので、閉店するなんて夢にも思わなかった。学生時代からみんなで訪れた場所で、家族も全員ファンでした。
2023年4月30日
 遅ればせながらさっき閉店したことを知りめちゃくちゃショックです。来週東京に行くから絶対寄って持ち帰り買おうと考えていたのに。せめて従業員のどなたかに味を引き継いだりしてくれたら。
 試行錯誤しながら自分で作ってみて住む街にも広めたい!全部は無理だけどあの抹茶ババロアは、格別だった。デパートで販売とも記事は書いてあるが今もしているのやら。デパートに電話して聞いてみようと思う。
 店はなくなっても今はネット販売だけでも売れる時代だからあの味はなくさないでほしいなぁ。
2023年5月21日
 女子高生だった私は、学校帰りの寄り道といえば紀の善さんでした。大人になっても飯田橋や神楽坂を訪れた際は、紀の善さんで甘味を楽しみました。ホッとできる大切な場所が無くなってしまいました。悲しみが溢れてきました。時は流れているんだな、としみじみ思いました。ちっぽけだけど、私の大切な鮮やかな思い出の中には、紀の善さんがいます。ありがとうございました。
2023年6月13日
 生前、母と整体の帰りに「紀の善」さんに伺い、毎回、ご主人が吟味された材料一つ一つの、熟練した餡の光沢や寒天の歯ざわりを確かめながら、甘味と会話を楽しませて頂いた数少ない思い出のお店でした。本年初めでしたか?、今年こそ「紀の善さん」に伺いたく、念の為ネット検索した所、突然〘閉店〙の文字、ショックでした「しまった!」と。あの厨房でのご主人の手際よい身のこなしや女将さんの手慣れたお客さんへの対応など、懐かしくお二人の姿が目に浮かびます、私も病いと戦い、お二人のお身体の事が気にならない訳ではありませんでしたので。コロナだけではなく私達を取り巻く環境や生活から、勢いよく様々なものが変えられていってしまう事に、腹立たしく悔しく思うのは「贅沢」なのでしょうか?!
 どんなに時代が変わっても、日本の四季の中で「人」が人として生活を楽しみ人生を生きる事が出来る歩調こそ、大切にしてゆかねばならないのでしょうが。
2024年4月29日
 神楽坂に行くと必ず紀の善に行ってました。粟ぜんざいの味がとても美味しかったのでもう食べられなくなりとても残念です。

6 「紀の善」の復活

 さらに令和7年7月、「紀の善」が復活するというニュースが飛び込んできました。

 株式会社クリエイト・レストランツ(本社:東京都品川区、代表取締役社長:飯沼辰朗)は、2022年に惜しまれつつ閉店した神楽坂の甘味処「紀の善」を2025年7月18日、神楽坂商店街に再オープンいたします。紀の善で25年以上に渡り腕を振るった製餡主任が、先代の想いを繋ぎ、当時のままに心を込めて炊き上げます。
 所在地:〒162-0825 新宿区神楽坂2-12 さわやビル1F/B1F

Photo: Kisa Toyoshima外観
ファンが起こした再生劇(第24回「かぐらびと」) https://kaguramura.jp/report/kinozen/ (2025.07.18)
株式会社クリエイト・レストランツ
   フードコート事業部 兼 和カフェ事業部 事業部長 鈴木 慎哉
再開までの経緯をお聞かせいただけますか?
「当グループの役員にも紀の善のファンが多く、店頭告知で閉店を知り、“紀の善はまちになくてはならない存在だ、なんとか残せないか”と模索しはじめたのが2022年10月です。共通の仕入れ業者さんを通じて、冨田ご夫妻にコンタクトを取り、“神楽坂から紀の善を失わせたくない”という思いを率直にお伝えしました。紀の善で長年餡づくりを担当していた中村さんを弊社に迎え入れ、暖簾を引き継ぐことが正式に決まったのは、翌2023年4月のことです」
さわやさんの跡地での再開は、いつ頃決まられたのでしょうか?
「2023年11月となります。それまで週に何度も神楽坂に足を運び、出店場所を探し回る日々が続いていました。 当時、“紀の善”の名は社内でも秘密裡に扱われており、場所探しの際も店名は伏せていたため、説明には正直苦慮する場面も少なくありませんでした。転機は中村さんと一緒にまちを見て回った帰り道でした。たまたま陶柿園の三代目、舘林和信さんにお声がけいただき、“出店場所を探している”とだけお話ししたところ、その場で不動産屋さんに駆け込んでくださいまして、最終的にさわやさんに辿り着きました」
暖簾を引き継ぐにあたり、変わらないものもあれば、変わったこともあるかと思います。
「製餡を担当していた中村さんが中心となり、紀の善の味を再現しております。食材は以前と同じ業者から仕入れておりますし、調理器具や工程もほぼ変わりません。唯一異なるのは抹茶です。以前使っていたものが入手困難だったため、選び抜いた同品質の抹茶を使用しております。また、店舗規模が約1/3に縮小したことから、食事の提供は行わず、和スイーツに特化した営業形態に変更しました」

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