軽子坂|「もっこ」と「かるこ」

 軽子坂は明治20年の地図でも出ています。では最初は標柱を見てみましょう。

軽子坂

 標柱では……

かるざか この坂名は新編江戸志や新撰東京名所図会などにもみられる。
 軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた。

 軽籠は「かるこ」と読み、軽籠持も「かるこもち」と読みます。「もっこ」とは畚とも書き、網状に編んだ縄や藁蓆(わらむしろ)の四隅に吊り綱を2本付けたもの。吊り綱がつくる2つの環にもっこ棒を通し、前後2人でもっこ棒を担ぎ、主に、農作業などで土や砂を運搬したもの。「もっこう」ともいいます。

 実際に「新編江戸志・10巻」と「新撰東京名所図会」でも出ています。「新撰東京名所図会」では……

 軽子坂は。神楽坂の東に在りて。揚場町と神楽町との間を西へ津久戸前町の方へ登る阪をいう。軽子とは江戸にて貸物を運搬する丁夫の称にて。此辺にはもと此等の徒多く居住せしに因る。揚場町には適当の名なり。江戸名所図会に之を逢阪とせしは誤りにて。逢阪は船河原町の上に在り。

てい」とは「成年に達した男子。働きざかりの男」

もっこ

 船荷をもっこに入れ江戸市中に運搬するのはちょっと大変だなあと思います。遠方はやはり荷馬車でしょうか。もっこは近くのものの方がいいと思うのですが。ただし、江戸時代には、舟で着く荷物を坂上にかつぎ上げる人足があり、これを軽子といいました。軽子と軽籠は違うものなのでしょう。 北見恭一氏が『神楽坂まちの手帳』第8号「町名探訪 揚場町」(けやき舎、2005年)で書いた……

 かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで、遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか。
牛込門

 上図は牛込揚場跡で、門は牛込見附門です。(鹿鳴館秘蔵写真帖。明治元年)。写真を見ると橋の手前が遊水池になっています。牛込門の船溜と呼びました。

明治28年。東京実測図(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)
神楽河岸

 ここで「神楽河岸がし」とは以前は「牛込揚場河岸」と呼んだ場所です。明治時代にこれが「神楽河岸」に変わりました。また、昭和58年には、濠が埋め立てられ、「神楽河岸」は人口0人の東京都新宿区の町名になりました。

『神楽坂まちの手帳』の『神楽坂界わいの坂・ベスト30その1』「軽子坂」では

 江戸は舟運にめぐまれていて、遠く千葉方面などからの穀類、酒、魚介、米、野菜がこの神楽河岸についた。

 『坂・神楽坂』という平成2年に大久保孝さんの自己出版の本があります。そこでは

 軽子坂と云われるのは、酒問屋升本の酒庫に全国から船に積んで来て神楽河岸に着いた酒樽を軽子たちがかついで登った坂であるからである。

 こんどは酒で、「酒問屋升本」も出てきます。『私のなかの東京』(野口富士男)では

 揚陸された瓦や土管がうずたかく積まれてあって、その荷を運ぶ荷馬車が何台もとまっていた。

とあります。荷馬車でこれから山の手に行くのでしょう。

 なお、軽子坂の下のほうの標柱は

坂下の軽子坂標識

 また、「怪談牡丹燈籠」のおつゆの父、牛込軽子坂の旗本飯島平太郎は軽子坂を上にいったところに屋敷があるといわれています。

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