紅谷[昔]|神楽坂5丁目

 肴町(現、神楽坂5丁目)29番地には明治20年代から小川つる氏の菓子店がありました。しかし、小川茂七氏が店主になってから、紅谷牛込分店(支店)として急成長しました。
 小川茂七氏は明治5年()か6年(, )に山形県で誕生、20歳頃上京し凮月堂(凮は風の異体字)の系列店で修行しました。一方、小石川安藤坂にある紅谷の店主は西岡家(嘉永年間創業)で、ここの娘は幼少期に小川正次郎氏の養女(小川つる氏)になり、青年期には肴町の菓子店店主、そして茂七氏と結婚します。茂七氏は小川家の婿になり、明治30年(1897)、紅谷牛込分店を肴町29に開店、事業の拡張に伴い隣地の28番地を借りるか購入して大正11年に新しい店舗を建築します。
 東京毎夕新聞社「昭和之日本」昭和4年では……

小川茂七氏

明治5年3月18日生 
東京市牛込区肴町28

 牛込区菓子製造業組合長 肴町同志会会長、紅屋菓子舗主

 山の手の銀座と称せらるる牛込神楽坂の殷賑は、震災後一人その度を増し、春夏秋冬の別ちなくその折々の店頭装飾に商華燦爛たる盛況振りは実に目覚しき限りにして、我が菓子業界の一権威たる紅屋の優美なる商頭飾窓に、自から注意を牽引せらるるは敢て甘党のみに限らざるべし。抑も当主小川茂七氏は山形市の人佐久間茂左衛門氏の五男として同市七日町に生れ20歳の頃志を立てて上京将来菓子業界に活躍せんと欲して京橋区南鍋町の風月堂に入って一介の店員となる。専ら製造に発事し精進して斯業秘法の会得に努むること数年、技倆大に進み主家の麻布飯倉町に支店を開設するに当り選ばれて其の製造部に転務せしめらる。爾来、身を持するに謹厳聊かも朋輩の悪風に動せず誠心誠意店務に精励せる着当なる人物は痛く紅屋分店の先代小川正次郎氏の傾倒する処となり27歳の時懇請せられてその養嗣子となる。超えて(明治)41年の単身渡航して欧米各国を歴訪し具に洋風菓子の製法を研究し帰朝するや一大改善を加えて頓に都下愛好者の好評を博するに至る。大正11年店舗を新築落成し時好の趨く所に順応して喫茶部を併設し神楽坂漫歩に一掬の風趣を与うるは世上周知の処たり。和洋両種に独特の技能発揮すと雖も就中儀式用製菓には他に匹敵を見ざる妙技を輝う。會て区会議員に推され現に頭書の要位に就けり。

 今田醒民編「山形名家録」大正11年は……

菓子商紅谷支店主 小川茂七君
 君円満豊類、常に唇辺藹然たる微笑を合み、嬌々人を魅了せんするの風貌あり、何人も一度君に接して会見応酬せん乎、知らず識らずの間に、親しむで離るべからざる情、湧然として起るを禁じ得さるなり、君は山形県の人、浅倉茂左衛門氏の第七男にして、明治6年3月を以て呱々の声を揚げ後小川家の養子となり家督を相続す、紅谷支店として菓子商を営み爾来益々此が業務の向上発展に貢献し今や東都屈指の大店舗となり店運旭日昇天の勢なり、人となり勤勉力行、敢えて荒怠することなく、趣味としては唯々事業を発展せしむるの一路にあり、令夫人はつる子と呼ばれ貞淑にして温良夫妻間に三男二女を設け、家庭の円満なる事恰も春海の如し。(東京市牛込区肴町29)

 平成18年(2006)「神楽坂まちの手帖」第14号の谷口典子氏の「神楽坂アーカイブズ」です。

 おいしいお菓子や話題のお店は、私たちに小さなゆとりを与えてくれる。明治、大正の人々にとって、その楽しみは今以上のものであったに違いない。
 大正10年、神楽坂上に和菓子店紅谷が、附属パーラー付きの鉄筋コンクリート三階建てに改築し、喫茶やランチ、パン、洋菓子を扱い始めた。写真は、パーラー正面とその内部である。
 現代人の目には、あまりにも普通の店に見えるが、当時はとび切りのハイカラ・モダン。
 スチールパイプの籐イス、白い壁、水色と白の床タイル、棕櫚やサボテン等、どれも高価で上品なインテリアだったので、たちまち評判が広まり、山の手第一の名店と認められ、ご婦人方や若者が好んで溜り場にした。
 何しろ、店主は明治41年に世界一周し欧米の菓子事業を学んだ「洋行帰り」。インチキ洋菓子がまかり通った時代に正真正銘、品質管理にも細心の注意を払って営業したのだから流行らない訳がなかった。
 設計を行った島藤建設も、前年欧州視察をして居り、宮内省御用を務める一流所であった。最新の化粧室、夏冬の過ごしやすさにも工夫がされ設備のよさも紅谷の人気だった。
 この当時、すでにシュークリーム、エクレア、プリン、チョコレート等、一通りの物は在った。初期のケーキは、溶かした砂糖で表面を固めた物だったが、昭和7~8年からバタークリームが登場し、保存の利かない生クリームを使用したケーキは、昭和35年以降、電気冷蔵庫の普及と共に定着して行く。
 神楽坂紅谷は、老舗小石川本店の分店として明治30年に開店。風月堂と技術交流をしながら三越に商品を卸すまでになったが、昭和20年5月の空襲で全焼し、その栄華の幕を閉じた。

 写真は建設写真類聚九期五輯一巻より

 渡辺功一氏は「神楽坂がまるごとわかる本」(展望社、2007年)で……

 牛込肴町28番地、現神楽坂五丁目に明治30年(1897)2月に紅谷の神楽坂支店を開店する。隣接した肴町29番地の菓子工場で製造も開始。

 少なくみても肴町28番地には明治31年までは別の店があり、明治45年も別の宅地があり、29番地には小川つる氏の所有地でした。
 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話」にも拡張する話が出ています。

相川さん そう、これを「紅谷」さんが間口を広げるというので、ここに空き家があったでしょ。ここは「伊藤はかま店」だった。ここが空き家になったんで、マスミヤさんもどけるとちょうど一角になるからって、こっちを買ってマスミヤさんにどいてもらった。これも三階建ての木造でね。ここの紅谷さんの二軒分は喫茶店にした。店はそのまんま。

 和菓子も洋菓子も販売して、大正11年の新店舗では1階は菓子屋、2階は喫茶店でした。3階はダンスホールでしたが、大震災後にはまた喫茶店になりました。
 この図は新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷 古老の記憶による関東震災前の形」(昭和45年)で、ちなみに「仐」の読みは「かさ」です。

 次の図は神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)の「肴町よもやま話」。ただし手書きから活字に改変。

 前頁の「古老の記憶に……」では「仐・高橋」から「菓子・紅谷」まで5軒の別々の家なのに「肴町よもやま話」では「高橋仐店」から「益みや」までが「紅谷」に吸収されて1軒になる。ここで、より変なのは「古老の記憶に……」の方でしょうね。
 次図は神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)の昭和5年頃(縦書きから横書き活字に修正)。

 次は昭和12年と昭和27年の「火災保険特殊地図」 です。

昭和12年の「火災保険特殊地図」
昭和27年の「火災保険特殊地図」

 ここでは昭和5年「まちの思い出をたどって」の肴町28と29を「貸家」と「紅屋菓子店」から、昭和12年「火災保険特殊地図」の「紅谷店」と「 」、昭和27年は「 」と「伊勢屋食品」に変化しました。

 また昭和3年の人事興信録 第8版で肴町29は「神楽坂がまるごとわかる本」の「菓子工場」があるかどうかは不明ですが、この住所は小川家の宅地でした。
 ちなみに地図上で「紅谷」「紅屋」だけではなく、隣の店も「益見屋」「益美屋」「益みや」と3種の書き方がありました。

 まず外観ですが、おそらく紅谷ができてすぐの外観でしょうか。3階建てではありません。出所は藤森照信など編著「幻景の東京」柏書房。平成10年。

 次の写真は平成6年「ここは牛込、神楽坂」第2号から。キャプションは……

 往年の紅谷さんのショーウィンド。「お中元に紅谷のお菓子を」の文字が見えます。このショーウィンドのこと、覚えていらっしゃる方はいませんか? 時々「紅屋」と書いている方がいますが、「紅谷」が正解です。

 原色菓子「製菓実験」8巻7号、昭和12年に出ていたお菓子です。

右上 火の弱い淡黄錦玉を煉りあげて適量の新引を混ぜトヨ型に二分厚み位に流し、これが止まったら小倉羹を流して固らせ、後抜き取って小口切する

左上 焦色にした白羊羹を直径一寸二、三分の円筒に注いで固らせ、これを輪切にして上割餡(この餡で牛皮を包んでいる)の三方に写真の如く押しつけ、錦玉で艶を出す。

右下 淡青の村雨種をソボロにしたものを四角の型に中へ小豆餡を入れて軽く詰めこみ、乾布巾を敷いた蒸籠に抜き返して強い蒸気で蒸しあげたもの

左下 柔かに水溶きした葛種を半返しにして図の如き型に流し、小豆餡を入れて強めの蒸気で一気に蒸しあげたもの。

 さて、当時流行した「紅屋の娘」はこの紅谷を歌ったものといわれています。昭和4年(1929)、日活は『東京行進曲』の主題歌としてレコードを発売し、B面に入っていたのがこの曲でした。

     紅屋の娘
1 紅屋で娘の いうことにゃ  3 今宵もお月様 空の上
  サノ いうことにゃ       サノ 空の上
  春のお月様 うす曇り      一はけさらりと 染めたとさ
  トサイサイ うす曇り      トサイサイ 染めたとさ
2 お顔に薄紅 つけたとさ   4 私も一はけ 染めるから
  サノ つけたとさ        サノ 染めるから
  私も薄紅 つけよかな      袂の薄紅 くださいな
  トサイサイ つけよかな     トサイサイ くださいな

 なお、流行歌「紅屋の娘」には神楽坂を示す歌詞はありません。

 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(丸ノ内出版社、昭和8年)によれば……

 日本菓子の老舗、山手一と云っても昔は過褒でなかった店です。階上喫茶部、しるこや甘いものもあり、この辺で一番安心して行ける上に、内部の設備もよいので坂一の人気ものとなって居り、若い学生、女学生、家族連れで夜は特に大入りです。お隣りに独立したパーラーも落着いていて、大学生逹のよいたまりになっています。ランチ、パン、喫茶等、お隣の日本菓子に対しここは洋菓子も売っています。

 昭和2年(1927)「東京日日新聞」に載った「大東京繁昌記」で加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』では……

 紅谷はたしか小石川安藤坂の同店の支店で、以前はドラ焼を呼び物とし日本菓子専門の店だったが、最近では洋菓子の方がむしろ主だという趣があり、ちょっとした風月堂といった感じで、神楽坂のみならず山の手方面の菓子屋では一流だろう。震災二、三年前三階建の洋館に改築して、二階に喫茶部を、三階にダンスホールを設けたが、震災後はダンスホールを閉鎖して、二階同様喫茶場に充てている。愛らしい小女給を置いて、普通の喫茶店にあるものの外、しる粉やお手の物の和菓子も食べさせるといった風で学生や家族連れの客でいつも賑っている。

 矢田津世子氏『神楽坂』(昭和11年)は昭和10年頃の神楽坂が出てきます。

 お詣りをすませて毘沙門を出てきたところを、「あら、お初っちゃんじゃないの」と声をかけられた。小学校の時仲好しだった遠藤琴子だとすぐに気が付いた。小石川の水道端に世帯をもってからまだ間がなく、今日は買物でこちらへ出てきたのだ、という。紅谷の二階へ上って汁粉を食べながら昔話がひと区切りつくと、琴子は仕合せな身上話を初めた。婿さんの新吉さんは五ツちがいの今年28で申分のない温厚な銀行員。毎日の帰宅が判で押したように5時きっかりなの。ひとりでは喫茶店へもよう入れないような内気なたちなので、まして悪あそびをされる気苦労もなし、何処へ行くのにも「さあ、琴ちゃん」何をするのにも「さあ、琴ちゃん」で、あたしがいないではからきし意気地がないの。まるで、あんた、赤ん坊よ。——と、いかにも、愉しそうな話しぶりである。それに惹きいれられて、お初が琴子の新世帯をああもこうも想像していると、
「お初ちゃんはどうなの?」
ときかれた。
「ええ、あたし……」
と云うたなり、うまく返事が出てこない。それなり俯向いて黙りこんでいると、お初の髪あたまから履物まで素ばしこく眼を通していた琴子は、ふっと気が付いたように時計をみて、
「もう、そろそろ宅の戻る時間ですから……」
と、別れを告げた。
 紅谷の前に立って琴子のうしろ姿を見送っていたお初は何やら暗い寂しい気もちになって今にも泣きたいようである。仕合せな琴子にくらべてわが身のやるせなさが思われる。

水谷八重子氏の「松葉ぼたん」(鶴書房、昭和41年)では……

 私の育った大正時代、神楽坂は山の手の盛り場だった。『田原屋』の新鮮な果物、『紅屋』のお菓子と紅茶、『山本』のドーナッツ、それぞれ馴染みが深かった。(中略)
 関東大震災のあと、下町の大半が災火にあって、神楽坂が唯一の繁華境となった。早慶野球戦で早稲田が勝つと、応援団はきまってここへ流れたものである。稲門びいきの私たちは、先に球場をひきあげ、『紅屋』の2階に陣どる。旗をふりながらがいせんの人波に『都の西北』を歌ったのも、青春の一ベージになるであろう。

 岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』」(平成13年)で岡崎弘氏は……

「紅谷」の切りさんしょもおいしかった。菓子は(店頭に)飾ってなくて、生菓子をくださいというと適当にやってくれて。その後ハイカラになってバナナを揚げたりお菓子にしたりして、で、二階を喫茶にして。「紅谷」のヒデちゃんとは、戸山の方に二度くらい遊びに行つたな。次男坊は「折屋」のエイちゃんと同級生だから、仲がよくってさ。「紅谷」さんの娘さんがお嫁に行くときなんぞは、「折屋」の親父さんが仲人で、とても盛大だったよ。「紅谷」は安藤坂だかが本店で、こっちは隠居仕事だったんだけど、当たっちゃって。

渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(展望社、平成19年)では……

 神楽坂でも「紅谷」の名前を知る人はもう少なくなったが、神楽坂を舞台とする小説やエッセイなどの文献に印象深く登場している。当時の有名店として山の手一流の格式を有する菓子店であった。とくに紅谷の二階喫茶部は家族連れや女性に人気があった。「評判の良い田原屋レストランのステーキと紅谷の洋菓子を食べることはあこがれであった。でも高くてなかなか手が出せませんでしたね」と、とくに人気だった菓子「スイートポテト」「クリームパイ」の味がいまでも忘れられないと、当時を偲ぶ人も多いのである。

 西村和夫氏の「雑学神楽坂」(角川学芸出版、平成22年)では……

 もともと紅谷は山の手で名が知れ、各所に支店を出していた和菓子専門の店だったが、シュークリームやエクレアなど洋菓子店に変わってから有名になり、二階が喫茶部になっていて、とろりとしたミルクを浮かべたコーヒーで有名であった。早稲田の学生や叙情派詩人の溜まり場になっていた。
 紅谷の前は、お菓子に魅了されたか詩人に憧れたのか分からないが、いつも女学生が集まる場所になっていた。ときたま道路から二階の詩人に女学生の声が飛んだという。

 茂七氏は明治41年(35-36歳)で洋行(修行ではなく観光旅行)に参加。費用は2340円、現在の費用は約4500万円。参加者は56人。予定総日数は96日。石川周行編「世界一周画報」(東京朝日新聞社、明治41年)では…

 明治41年3月16日神戸港と18日横浜港を出発。28日、ホノルル10時間滞在、4月3日、サンフランシスコに到着。ユタ、シカゴ、ナイアガラ、ボストン、ワシントンD.C.、ニューヨーク。23日、出発。5月1日、リバプール着。ロンドン。15日出発。同日パリ着。ジェノア、ローマ、ナポリ、ボンベイ、ベニス、ミラノ、フランクフォルト、ベルリン、サンクトペテルブルク、モスクワ、6月7日、汽車で出発。18日、ウラジオストク着。19日出発。21日敦賀着。

 氏は牛込区の区議牛込肴町会会長、営業税調査委員、牛込菓子商組合長などを務め、長女は茂七氏が修行した凮月堂の分店に嫁ぎました。
 昭和初期には「のれん分け」で東京の西側を中心に紅谷がいくつもできました。
 昭和13年、家督を長男・秀吉に譲り、氏は隠居。しかし疎開した山形で昭和20年3月18日に他界。享年は72。また昭和20年の戦災で紅谷分店も全て灰燼になりました。

多くの人材を育てた小川茂七

「東京風月堂社史」編纂委員会編「東京風月堂社史」2005年
 第2次世界大戦の敗戦の色濃い昭和20年(1945)3月18日、明治後期以降菓子業界において華やかな活躍をした小川茂七が他界した。
 小川茂七は、明治7年(1874)に山形より上京、麻布飯倉の七沢康太郎の風月堂に入り、4年後に七沢の勧めで、小石川安藤坂下の紅谷・西岡幾次郎の妹と結婚し、その後、神楽坂に紅谷を開業、東京山の手の代表的菓子店として知られるようになる。
 明治40年(1907)、小川が33歳の時半年間にわたって世界を回り菓子の製法を学び、帰国後、新たにケーキ、ドロップなどを製造し大正10年(1921)、鉄筋コンクリート3階建ての店舗を築くまでになる。
 その5年前の大正5年(1916)には、長女とく子が淡路町風月堂の2代目穂積峰三郎と結婚。淡路町風月堂との技術交流を始め緊密な関係となった。
 小川は仲々面倒見の良い人物で、とりわけ優れた後進を数多く育てた。小川の門下には、銀座コロンバンの門倉国輝、自由ヶ丘モンブランの追田千万億、本郷森川町の紅谷、宮内庁大膳寮洋菓子担当主任の佐久間良助(良三)、製菓講師の多谷真三などがいた。

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