赤井足袋店 1丁目 ID 7640-7641

 
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7640 赤井足袋店
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7641 赤井足袋店

 撮影は新宿歴史博物館では『明治中期以降(推定)』とし、または『新修 新宿区史』のキャプションでは“神楽坂入口付近(明治40年代)”としています。この赤井足袋店の全体的な様子は、『牛込区史』(昭和5年、牛込区役所、590頁と591頁の間)やID 2(昭和6年)とそっくりです。

 場所は赤井足袋店の店先で、瓦葺きです。ここは神楽坂下交差点で、左に行くと神楽坂上に向かい、右に行くと飯田橋駅西口に、前と後ろは外堀通りです。

「赤井」の店名と「⩕」の下に「三」の屋号が大きな足袋の形の中に書かれています。

 左のガス灯について、明治初期の街の灯りの再現で裸火のガス灯から「明治27年頃からは、白光を発生する網状の筒を用いたガスマントル式のガス灯に置き換えられるようになり、街路灯はより明るくなりました」といっています。写真の街灯は以降とは違い、自立的で、ガスマントル式のガス灯でした。ヤジロベエに似たものがついた蓋も「ルーカスアウトドアランプ 明治後期」とちょっと似ています。

 軒上の表札は4字で1字目は「村」「科」など、2字目は「誉」「益」など。

 正面の帳場の左側の男性は仕事道具と思われる長細いつちを手にしています。客は通り側の四角い椅子に腰掛け、その場でコハゼの調整や簡単な修理をしたのでしょう。店内の左側には足袋の陳列棚、奥にも細かく分かれた引き出しや棚があります。

福助

 家の右すぐに斜めにささえる丸太があります。さらに外堀通りの先にも同じような棒があります。実際に電柱のつっかい棒として働きました。電柱看板は高い位置の突き出し広告が「染物〇〇〇〇」。低い位置は「政治教育論」と読めます。尾崎行雄の大正2年の著作とは時代が合いませんが、別の本でしょうか? それとも「この写真2枚は『政治教育論』が刊行された大正初期の可能性があると思います」と地元の方。

 また自転車の男性の左上には逓信省(現、日本郵政株式会社)の「〒」マークと「郵便切手・収入印紙」うりさばきじょの吊り下げ看板が見えます。「売捌所」は逓信省が業務委託する郵便局、コンビニ、法務局、一部の金融機関などが、収入印紙や収入証紙を販売する場所です。ここでは赤井足袋店がその業務を受けていました。この「〒」マークは修正を加えながら第2次大戦後も長く使われました。「〒」の下には軒灯があります。

 左は別の店で「草花」と「辻」の看板があります。木の窓枠の中には植物が見えるので、花屋か植木屋と思われます。よく見ると建物は一体で、赤井足袋店が一部を貸店にしていたのかも知れません。

 新宿区の「ガレキの中から、30年のいま…… 写真集 新宿区30年のあゆみ」(昭和53年)で、この「現在」では「Akai」になっています。また左側はパチンコ店「ニューパリ―」です。

新宿区「ガレキの中から、30年のいま…… 写真集 新宿区30年のあゆみ」(新宿区、昭和53年)

 新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)「古老談義・あれこれ」の赤井儀平氏では……

ガス灯 見附のつき当りは石垣ですからまっ暗でした。手前共の2代目がガス灯をつけました。橋の向いがわとこちらがわにです。そうすれば麹町のお屋敷の女中さん達も淋しがらずに出て来られるだらうというわけです。その頃はまだ電灯のない時代です。皆ランプでした。ガス灯は古い写真をごらんになるとおわかりになりますが、ひさしヘガラス張りの箱形の軒先灯がつけてありまして、点灯人夫が夕方になると脚立をかついで火をつけに来るんです。日本点灯会社というのが肴町にありまして点火、掃除、油差しを請け負っていました。勿論軒先灯だけではなく街灯もありましたが、照明が暗いだけでなく夜になると通りの店はみんな「あげ戸」を下してしまうものですから通りは暗くて、宅などは上の1枚だけを障子にしておきまして、窓をつけてございましたから、遅くいらっしゃるお客様にはその窓越しにあきないをいたしておりました。街灯といっても何本もありませんでしたので、そこだけは幾分か明うございましたがそれ以外の所はまっくらでした。それがだんだん電灯がつく様になりますと表にガラス障子がはまり、屋内の明りが外に出るようになりまして通りも大変あかるくなりました。それまで神楽坂もひどうございました。

足袋屋 その頃の足袋屋ってものは夏冬なしに忙がしかったものです。夏一生懸命作っておいたものを冬には全部さばききってしまいます。夏からやっておりませんと間に合わないのでございます。何しろ昔はミシンてものがありませんので皆手縫いでございますから夏からやっておりませんと時間的にも労力的にも間に合いません。そこで足袋の甲つくりなんか、全部下職に出しました。今でいうなら家庭内職とでも申しましょうか。出来上った品物は店でさばいておりましたが縁日だからといって特に売上げが多いということはありませんでした。私ども(赤井足袋店)などはむしろ縁日には植木屋にはびこられてしまいますのでみせあきないの方はさっぱりでした。ほかのところでもそうなんでしょうが町がにぎわうので皆さんが喜んでいました。考えてみるとやっぱりおおらかとてもいうんでしょうね。
 手前ともにおいで下さるお客様は、お屋敷の方が多うございました。それに数をお買い下さる方の所へは、こちらから寸法をとりにうかがったり納めに参ります。ですから親爺のお供で随分いろいろなお屋敷に伺っております。

お屋敷回り お屋敷回りのきらいなことのひとつに犬に追いかけられることがありました。徳川様のまん前のお宅にきらいな犬のいるお得意がありました。誰が参りましても必らず追かけられるんです。とうにも仕方ありませんのでそのお宅に伺う前には電話をかけまして「今日は何時頃伺いますので恐れ入りますが犬をつないでおく様お願い申しあげます」なんてたのんでから出かけるようにしていました。
 早稲田の大隅さんの犬はまるでライオンみたいでした。然もそれが2匹もおりまして,はなしがいですから恐ろしうございました。でもこの犬はちっとも吠えませんで黙ってついて来まして私共がお宅の方にご挨拶をすると,すうっと帰ってしまうんです。実によく飼いならしたものでした。
 又こんな話もございます。昔大蔵省の印刷局長もおやりになった得能さん、ご註文がございまして、小僧がお届けに伺ったんです。しばらくするとその小僧がどうしてもお邸がわからないといって帰って参りました。「おかしなことがあるものだ、あんな立派なお邸がわからないはずはないぢゃないか、それでは私が付いて行ってやろう」ということで一緒に参りました。勿論お邸はございました。用を済ませて帰りがけ、ひょいと向うを見ますと、ここにもおりましたね、いるわいるわ。何と八匹堂々と勢揃いをしてこちらに向ってやって来るではありませんか、ちょっと驚きましたね。そうしてナアル程と思いあたりました。小僧がお邸が見当らないというのは犬が原因だったんだということが……。手前がきらいだったものですから別に小言もいわず帰って参りました。今でも郵便やさんが犬は困るっていうのは聞きますが、その気持は本当によくわかります。
 こんなわけですからお屋敷回りの苦労も並たいていではありませんでした。でも又皆さんのごとになれないような奥向きを拝見することもできました。結局はつらいこともありましたが面白いこともありまして、いつの間にかこんなに長く商売をやってしまっているわけです。

芸能人の足袋  大体においてお年寄の足袋は大き目にゆっくりと作れば良いので仕事は楽です。そこへいくと芸能人、特に能関係、日舞関係のお客様のものには泣かされます。中でもお能が一番きつうございます。私共は金春にお出入りをしておりましたがそれはそれはやかましゅうございました。
 何しろ上げていっぱい。着ていっぱいというんでございます。上げていっぱいとは「足首を上にむけても、足を舞台の上にトンとついても、足袋の裏にはシワがよらないように……」という意味なんですが、足袋の裏はゴムぢゃありませんからそんな器用なことは出来るはずはございません。それで作りますときに底の中を細めにしまして甲の布で足首全体をくるむようにいたします。俗に「イセ」と申しますが親指の頭にこれを多くとりまして、これも指をくるむようにいたしますと,見た目には足も小さく見えますし一杯になりますので底にシワが入りません。
 大体舞台は下から見上げるようになっておりますが、足袋の底を見せない様に心がけて舞うんだということをうかがったことがありました。そうして出来上った足袋は、すぐに水につけて布目をすっかりツメしまうんです。とにかくお能のものはむづかしうございます。そのほか舞踊のもの花柳界のものなど沢山作りましたがこれほどむづかしいものではございませんでした。
 新派の水谷八重子さん、芸術座をやっておいでになりましたね、ご承知のとおり芝居は25日が一興行です。そうすると25足の足袋をお作りになりました。なぜかと申しますと踊りを1回やりますとどんなに所作台をきれいにしておきましてもどうしても底がよごれてしまいます。お客様に汚れた足袋をみせたくないということで、一日目にはいた足袋は二日目に踊る時にははきません。他の狂言のときに使います。したがって毎日一足づつ祈らしい足袋が必要だということになります。
 水谷さんは昔3丁目に住んでおいでになりました。左様丁度今の木村屋さんの前あたりになりますね。手前どもでは昔郵便局をやっておりましたので、その頃まだ小さい水谷さんが手紙を持ってお使いにおいでになりました。それとお母さんですかね。手をひかれて踊りのお稽古にかよわれる姿もちょいちょい見かけたものでした。水谷さんのお兄さんもよく店に見えられましたがこちらは実用向きな「ガス足袋」でした。この他に新劇の東家三郎さん。土方さん。岸照子さん。それにすぐそこにおられた波野さん、先代の吉右工門さん。こういうかたがたにもご贔屓になりました。
 この近くに泉鏡花先生がおられたのはご存知でしょ。「紀の善横丁」から2丁目22番地へ移られたんです。22番地のお宅は現在の理科大学の敷地内にありまして、二階家でしたが戦災で焼けてしまいました。紀の善の横丁にいた頃よく手前どもの郵便局へドテラ姿で来て為替をとっていきました。為替の宛名は「泉鏡花」となっていました。当時私はあの人がそんな偉い人だとは知りませんでしたので、ただ「毎月為替をとりに来るドテラの男」くらいにしか考えていませんでした。その後22番地に引越したんですね,「婦系図」も22番地で書いた様ですね。泉鏡花先生は足袋のご用はありませんでした。
 近衛公のお屋敷でもごひいきをいただきました。
 特に目を掛けていただきました。奥様(先代の)は薩摩様からおいでになったのでしょうか調度品には全部丸に十の字のご紋がついておりましたし、戴いてまいりますお菓子にも丸に十の字の文様が打ってございました。
あげ戸  揚げ戸。揚戸。縦溝に沿って上下に開閉する戸。戸の上端に蝶番ちょうつがいなどを取り付け、つり上げて開ける戸
徳川様 赤井足袋店は創業以前から神楽坂で履物商を営んでいたとされ、徳川慶喜公に履物類を納めていたという。
得能さん 明治10年に初代印刷局長の得能とくのうりょうすけ。あるいは長男の得能通昌みちまさでで、明治22年に印刷局長になった。
奥向き 家の奥のほう。居間のほう。家庭内に関すること
金春 こんぱる。金春流は能楽の一流派。
木村屋 現 上島珈琲店 神楽坂店。
郵便局 明治18年12月22日、逓信省が発足。赤井足袋店は特定郵便局の1つで、地域の名士や大地主に土地と建物を無償で提供させ、郵便の取り扱い事業を委託する形で設置されていた(Wikipedia)。
ガス足袋 主に木綿糸をガスの炎の中を高速度で通過させ、表面の毛羽けばを焼き取って滑らかで光沢のある糸にしてそれを足袋にしたもの。高級綿織物の足袋。
紀の善横丁 現在では「神楽小路」。「神楽坂通り」と「軽子坂」を結ぶ1丁目と2丁目の間の小路。
近衛公 近衛このえ文麿ふみまろ 内閣総理大臣を歴任。
丸に十の字 薩摩鹿児島藩島津氏の家紋

 1980年には赤井商店になり、1985年にはメンズショップアカイ、1995年まではアカイですが、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では1996年には別の商店「カフェベーカリー ル・レーブ」になりましたが、経営者は同じ赤井氏でした。ル・レーブ(Le Reve)はフランス語で「夢」です。下図は2006年の「ル・レーブ」です。

カフェベーカリー ル・レーブ

 現在は不動産仲介業のアパマンショップで、左はスターバックスコーヒーです。なお、アパマンショップ(旧赤井商店)もスターバックスコーヒー(旧寿徳庵)も拡幅計画のため将来は取り壊されて外堀通りの一部になります。

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