神楽坂の明治・大正・昭和初期の写真3枚

 次の写真3枚を比較して、撮影時間は本当に正しいのか、それを調べてみたいと思います。
 1枚目は昭和5年「牛込区史」から撮った写真です。この写真は昭和5年、遅れても昭和4年までに撮って、正真正銘、正しい写真です。
 2枚目は「絵葉書」から撮った写真です。大正初期に同じような場所で撮ったと考えられていますが、正確にどの時点で撮ったか、わかりません。
 3枚目は絵葉書「東京百之景内 牛込神楽坂」から撮った写真です。説明では「明治35~39年」に撮った写真だと言いますが、この年も正確ではありません。
 つまり、絵葉書2枚は正確なんでしょうか。例えば、電信柱の腕木は、3枚目の明治35~39年では最大10個に及びます。1枚目の昭和5年では5本です。本当にこの年は正しく合っているのでしょうか。

東京百之景内 牛込神楽坂

 では細かく調べてみます。

 ① 昭和5年 ② 大正初期 ③ 明治35~39年
a路面電車 架線柱 有 不明 有
b外堀通り歩道 有 有 右側にあり
c坂口病院 有 有 無
d寿徳庵 有 有? 有?
e大福 有 有 不明
f変圧器 2 1 0
g神楽坂通り街灯 球形 球形 無
h電信柱の腕木 5 5~9 10
i電信柱の柱 同じ 同じ 違い
j赤井 有 無 有
m外堀通り街灯 無 無 有

a) 路面電車の架線柱がある場合、これは①(昭和5年)と③(明治35~39年)ではっきりありますが、②(大正初期)の架線柱では位置が離れすぎて、不明です。また、架線柱③と①を比べると、街灯は③ではなく、①ではあります。つまり、街灯では①よりも③の方が古いといえます。

b) 外堀通りの歩道は①はあり、②もあり。③では左側の歩道が不明でも右側はあります。

c) 坂口病院の看板は①と②ではあり、③ではなし。①と②よりも③の方が古いといえます。

坂口病院①、②、③

d) 左の角にある寿徳庵では①はOK、②は「寿」か不明。③も「寿徳庵」か不明。

e) 「大福」は①と②はあり、③は人に隠れて見えないか、「大福」はなし。

f) 電柱に変圧器の数は①は2個、②は1個、③はなし。つまり、①②③の順番で古くなっているようです。

g) 神楽坂通りの街灯は①と②は球形で、③はなし。①と②よりも③の方が古いといえます。

h) 電信柱の腕木は①は5本、②は5本以上、③の最大数は10本。つまり、電信柱の腕木は①②③の順番で数では減っていくようです。

i) 電信柱の柱は①と②は似通っていて、③は違っています。①と②は③と比べて時間的に近いといえます。なお②では赤井の屋根に作業員数名がいました。

j) 足袋形の赤井は①と③はあり、②はなく、何らかの理由で②はなくなっていました。

m) 外堀通りの街灯はある場合は③だけ、①と②はなし。①と②は外堀通りの街灯はなくなっています。

 まとめると、②「大正初期」は①「昭和5年」と比べると同じものは6個(外堀通り歩道、坂口病院、大福、神楽坂通り街灯、電信柱の柱、外堀通り街灯)、別のものは3個(変圧器、腕木、赤井)は別。次に③「明治35~39年」と①「昭和5年」は同じが3個(路面電車架線柱、外堀通り歩道、赤井)、別は7個(坂口病院、変圧器、神楽坂通り街灯、腕木、電信柱の柱、外堀通り街灯)でした。つまり、②「大正初期」は③「明治35~39年」よりも①「昭和5年」と似通っているようです。

 電信柱の腕木の数(参照はh)は明治時代から大正時代にかけて増加し、昭和時代には減少しました。明治時代には電線1本につき通信1回線を割り当てる「裸線」方式でしたが、昭和時代には裸線が「ケーブル」に置き換えられました。
 ②「大正初期」では、何らかの工事なのか、赤井の屋根に作業員数名がいます(参照i)。足袋形「赤井」ロゴもこの工事で一時無くなったと考えられます。
 外堀通りの街灯(参照m)は③はあり、①と②ではなくなっています。どうして? 街灯は最初は裸火のガス灯、ガスマントル、さらに白熱電球になってきて、照明はただただ明るくなっていきます。また路面電車の架線柱の街灯(参照a)は①ではあり、③ではありません。おそらく東京府は外堀通りの暗い街灯から架線柱の煌々と輝く街灯に変わっていたのでしょう。

 つまり、①②③の撮影時間はおそらく正しいと思います。


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